こんにちは^ ^
ペパーミントあいです。
今日は申命記12章を読みました。
申命記12章
[ai] 申命記11章 主の御業〜祝福と呪い の続きです。
本章には
- 礼拝の場所(1-12節)
- 犠牲の肉と血(13-28節)
- 異教の礼拝に対する警告(29-31節、13章に続く)
※サブタイトルは新共同訳聖書より
について書かれていました。
以下は、受洗1年6ヶ月目のわたしが本章を読んだ感想です。
解釈には注釈、解説書、教会で得た知識等を総動員させていただいておりますが、聖書について詳しくお知りになりたい方は、お近くの教会へ行って、牧師先生に聞いてみて下さいね^ ^
礼拝の場所(1-12節)
本段落の個人的中心聖句は、以下の箇所です。
必ず、あなたたちの神、主がその名を置くために全部族の中から選ばれる場所、すなわち主の住まいを尋ね、そこへ行きなさい。(5節)
これは、自分の好きな場所で、好き勝手に礼拝してはいけない、という意味になります。
移動生活をしていて、かつ、戦も多かったイスラエルの民は、みんなで同じ決められた場所で礼拝することが難しい状況でした。
なので、好きな場所で礼拝しても、しないよりははるかにマシです。
でも、カナンに入国し、安住の地を得たのなら、事情は変わります。
好きな場所で好き勝手の礼拝をしていては、やがて、神様の言うことを聞かない、自分本位に堕落します。
なので、ちゃんと神様がここで礼拝しなさいという場所に行って礼拝するように、と、言われているのです。
犠牲の肉と血(13-28節)
本段落の個人的中心聖句は、以下の箇所です。
ただし、どの町においてもあなたの神、主が与える祝福に従って、欲しいだけ獣を屠り、その肉を食べることができる。かもしかや雄鹿を食べる場合のように汚れている者も清い者も食べることが出来る。(15節)
この段落には、動物の献げ物を献げる場所について書かれています。
動物の献げ物も、礼拝する場所同様、神様の指定された場所で献げなければなりません。
でも、献げた肉で食べていいものは好きなだけ食べて良い、と言われています。
神様の前で、家族や男女の奴隷、レビ人とともに、楽しく食べましょう、と言われています。
とても幸せそうな光景が目に浮かびますね^ ^
一方で、血だけは食してはならないと警告されています。
理由は、血は命そのものを表し、命は神様の領域だからです。
血を飲むことを禁じる記述は、これまでの出エジプト記やレビ記でも繰り返しなされています。
異教の礼拝に対する警告(29-31節、13章に続く)
29 あなたが行って追い払おうとしている国々の民を、あなたの神、主が絶やされ、あなたがその領土を得て、そこに住むようになるならば、30 注意して、彼らがあなたの前から滅ぼされた後、彼らに従って罠に陥らないようにしなさい。すなわち、「これらの国々の民はどのように神々に仕えていたのだろう。わたしも同じようにしよう」と言って、彼らの神々を尋ね求めることのないようにしなさい。(29-30節)
彼らを守ることの出来なかった神々を、滅ぼしたあとに礼拝とは、何ともおかしな話です。
そんな話あるか?と思ってしまいますが……偶像崇拝は最も大きな罪であると同時に、最も大きな誘惑でもあるようです。
人間はとかく、目の見えるものに惑わされやすいからですかね?
目に見えない神様より、目に見える偶像を神様にしたくなってしまう願望が、生まれつきあるのかもしれません。(神様に造られた本来の性質としてではなく、入り込んだ罪の性質として)
感想
偶像崇拝が人の最も陥りやすい誘惑、というところに、とても納得してしまいました。
私は神様より偶像を頼りたいと思ったことは、今のところありません。
(あくまでも、神を象った像としての偶像に対しては)
でも以前、ある人からこのように言われたことがあります。
「カトリックはマリヤ像があるけど、プロテスタントには像がないから、祈ってる気がしないんだよね」
像がないから祈ってる気がしない、って、何じゃそりゃ!?と思いました。
でも、クリスチャンでない多くの人は、そうなのです。
冷静に考えてみれば、日本の代表的な宗教って、仏像があったり、鳥居の中に神様の像っぽいものがありますもんね。
それに向かって手をあわせることが祈ることだと思っている方々にとっては、見えない神様に向かって祈るという概念が、なかなか理解出来ないのです。
この国の偶像崇拝の歴史は、とても根深いですm(_ _)m
主による打ち破りと解放を、ただただ祈り続けるしかありません。
以上、ペパーミントあいがお届けいたしました!
次回は [ai] 申命記13章 異教の礼拝に対する警告〜他の神々の礼拝に対する警告 についてお届けいたします。
お楽しみに!