こんにちは^ ^
ペパーミントあいです。
今日は民数記24章を読みました。
民数記章
[ai] 民数記23章 バラムの託宣〜バラムの第三の託宣 の続きです。
本章には
- バラムの第三の託宣(23章続き、1-25節)
※サブタイトルは新共同訳聖書より
について書かれていました。
以下は、受洗1年4ヶ月目のわたしが本章を読んだ感想です。
解釈には注釈、解説書、教会で得た知識等を総動員させていただいておりますが、聖書について詳しくお知りになりたい方は、お近くの教会へ行って、牧師先生に聞いてみて下さいね^ ^
バラムの第三の託宣(23章続き、1-25節)
バラムは、イスラエルを祝福することが神様の御心であることを悟りました。
いつものように呪い(まじない)をすることはせず、イスラエル人の宿営の方に顔を向け、目を凝らして見渡すと、神様の霊が彼の上に臨みました。
バラムは次のような託宣を述べました。
「べオルの子バラムの言葉。
目の澄んだ者の言葉。
神の仰せを聞き、全能者のお与えになる幻を見る者。
倒れ伏し、目の開かれている者の言葉」
このような自己紹介的な文言は、これまでの託宣にはありませんでした。
このような自己紹介は、預言者が神様からの言葉を告げるときの形式と同じなのだそうです。
聖霊(神様の霊)が降りていることの証しです。
その後バラムは、イスラエルを祝福し、褒め称える言葉を述べると、最後を
「あなた(イスラエル)を祝福する者は祝福され、呪う者は呪われる」
と締めました。
バラムがイスラエルを三度も祝福したことに対し、バラクは激しく怒りましたが、バラムは
「例え金銀を積まれても、主に逆らうことは出来ないと言ったではありませんか。後の日にこの民があなたの民に対して何をするか、あなたに警告しておきます」
と言うと、最後に、イスラエルがエドムやアマレク、カイン人などを制圧することを預言し、自分の国へ帰って行きました。
感想
この時は聖霊に満たされ、神様の御心を成したバラムでしたが、後には背信の罪で死ぬことになるそうです。(まだその箇所は読んでいませんが、あと5章くらい読み進めるとそうだとのこと)
聖霊に満たされている人でも、そうなってしまうことはあるのだということを、頭に入れておかなければなりません。
神様の霊がその人に降りて臨んだことで、その人は神様の臨在を経験し、神様の偉大さを体感し、御心が分かったはず。
でも、聖霊の臨在を経験すれば神様の全てが分かるわけではないこと、それでも罪人であり、不完全な人間であるということです。
「聖霊に満たされた人は二度と罪は犯さない」と言う人がいますが、それは間違いです。
「私は聖霊に満たされているから間違うことはない」と自分で言う人が居たら、怪しんだ方がいいです。
確かに、聖霊が臨んだ状態の人は、その時は罪を犯すことはないかもしれません。
でも、驕り高ぶりや自我がいつのまにか聖霊を締め出し、聖霊に成り代わった悪霊に支配されてしまうこともあるのです。
怒りや憎む心を持っていると、その人の内で聖霊が働きにくくなると聞いたことがあります。
「あの牧師は聖霊に満たされて目の開かれている人だから、あの人について行けば大丈夫♪」と、牧師を神様と混同することは、大変危険なことです。
それは他ならぬ偶像崇拝。
神様以外のものを神様とする行為であることに違いありません。
聖霊に満たされて目の開かれた人でも、間違うことはある。
このことは、よくよく覚えておく必要があります。
以上、ペパーミントあいがお届けいたしました!
次回は [ai] 民数記25章 べオルにおけるイスラエル についてお届けいたします。
お楽しみに!