こんにちは^ ^
ペパーミントあいです。
今日は民数記19章を読みました。
民数記19章
[ai] 民数記18章 祭司とレビ人に関する規定 の続きです。
本章には
- 清めの水(1-22節)
※サブタイトルは新共同訳聖書より
について書かれていました。
以下は、受洗1年3ヶ月目のわたしが本章を読んだ感想です。
解釈には注釈、解説書、教会で得た知識等を総動員させていただいておりますが、聖書について詳しくお知りになりたい方は、お近くの教会へ行って、牧師先生に聞いてみて下さいね^ ^
清めの水(1-22節)
神様はモーセとアロンに命じられました。
「まだ軛(くびき)を引いたことのない、無傷の赤毛の雌牛を焼いて灰にし、清めの水を作るために使いなさい」
軛とは、親牛と子牛を繋いで、畑を耕させるためのもの。
軛を引いたことのない牛は、まだ労働についたことのない、元気な状態です。
雄牛ではなく雌牛なのは、子を産む雌が命の象徴であるから。
つまり、無傷で、元気で、命に溢れた状態の牛である必要があったのです。
この雌牛を燃やして作られた灰は、清めの水を作るのに利用されます。
新鮮な湧き水にこの灰と、ヒソプの葉を入れて作ったものが、清めの水です。
死体や墓場に触れたり、同じ建物の中で誰かが死んだ場合、その人は汚れます。
このような汚れを受けた場合、3日目と7日目に、汚れていない人に清めの水をかけてもらい、7日目に服と体を洗って、夕方になって初めて清められるとのこと。
身を清めない者は、民の中から絶たれるそうです。。。
感想
出エジプト記から続く律法は、清くあることを徹底して教えていますね。
神様の民は清くなければならない。
神様に仕える祭司は、特に清くなければならない。
なぜなら、神様は清いお方だから。
汚れたまま神様に近付いてはいけないと、言われているようです。
神様に近付くようにと、言われているようです。
でも、正直、凄く面倒くさい。
この世は悪魔の支配にある王国なので、清く生きていくことは、とても難しいことであることを思い知らされます。
神様から阻むものがたくさんあることを、思い知らされます。
でも、面倒になって神様に近付くことをやめてしまったら、それは人が本当に生きている状態とは言えない。
この世で生きていくことって、凄く凄く凄ーーーく、大変なことだなぁと思いました。
以上、ペパーミントあいがお届けいたしました!
次回は [ai] 民数記20章 メリバの水〜アロンの死 についてお届けいたします。
お楽しみに!