こんにちは^ ^
ペパーミントあいです。
今日は草加神召キリスト教会リバーサイドチャペルのマイティーサービスに参加してきました!
草加神召キリスト教会リバーサイドチャペルのマイティーサービス
草加神召キリスト教会リバーサイドチャペルは、東京スカイツリーライン 松原団地駅より徒歩5-10分ほどのところにある教会です。
マイティーサービスは毎週日曜日 17時半から行われている夕方の礼拝です。
詳しくは下記教会HPをご確認いただければと思います。
この日のメッセンジャー
この日はめじろ台シオンチャペルの和田圭士先生がメッセージをして下さいました。
体格が良くて、関西弁のとても明るい先生でした^ ^
神様の愛の教えを全うするために必要な「知識」と「意思」について
この日のメッセージでは、感情だけでは神様の愛の教えを全うすることは出来ない。
全うするためには、「知識」と「意思」が必要であることを学びました。
人間だけが持っているとされる知性・感情・意思・人格
他の動物にはなくて人間だけが持っているものは、何でしょうか?
一般的には、知性、感情、意思、人格であるとされています。
※ここで和田先生は、動物愛護精神の強い方が「動物にだって感情や知性はあるんだ!」と反論されることを気にされていましたが、そこを論じると話が進まなくなるので、その前提で進めさせていただきます。
聖書の教え、イエス・キリストの教えは、「愛」の教えです。
愛と聞くと、一般には男女の愛をイメージされる方が多いかと思います。
男女の愛にしても、家族愛にしても、愛って感情の要素が強いですよね。
でも「感情だけでは愛は全う出来ない」と、和田先生はおっしゃいました。
感情だけでは愛の教えは全う出来ない。必要なのは知識と意思
感情だけでは、愛は全う出来ません。
考えてもみて下さい。男女の愛にしても、付き合いたての頃はお互いに大好きでも、しばらくするとお互いの嫌な一面が見えて気持ちが冷めてしまうこと、多いですよね。
運良く結婚にまで至っても、結婚した途端に相手の嫌な一面が露呈して離婚、なんて夫婦も多いです。
わたしたち人間の感情って、相手のいい部分だけが見えているうちは相手に対していい印象を持つけれど、悪いところが目につくと、相手に対する感情が悪いものに変わりやすいのではないでしょうか?
でも、神様の言われる「愛」とは、こんな変わりやすいものではありません。
感情がついていかなくても全うするために、神様はわたしたちに「知識」を与えて下さいました。
その知識を、自分の「意思」で学び、自分の「意思」で生かすことが大切です。
知識の源は聖書の御言葉
その知識の源は、聖書の御言葉です。
聖書には、愛の教えを全うするために必要な知識がたくさん書かれています。
その中でも、特に大切な知識を引用させていただきます。
10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。(ローマ人への手紙6章10-11節)
キリスト教の教えは、物凄く端的に言うと「アダムとエバが神様に背いて禁じられた木の実を食べ、人間は罪人となってしまったけれど、イエス・キリストが十字架のかかったことによって、全ての罪が赦された」というものです。
でも、だからと言って「赦されているのだからいくらでも悪いことしていいや」というわけでは、ありません。
イエス・キリストの十字架によって全ての罪は赦されたけれど、本当に赦されるには、イエス・キリストが救い主であることを受け入れ、イエス・キリストの教えに従うことが必要です。
そのための儀式が「洗礼」です。
洗礼式では全身水に浸かって起き上がるということを行いますが、これは、水に浸かる=罪に対して死ぬ、起き上がる=神に対して生きることを意味しているのです。
これが、イエス・キリストの愛の教えの初めの一歩であると考えていいと思います。
一度神様の前に誓い、洗礼を受けたからには、それを取り消すことは出来ないし、神様から逃れることは出来ません。
誓ったからには、「罪に対して死に、神に対して生きる」生き方をすべきではないでしょうか。
でも「〜べき」「〜ねばならない」では疲れる
でも、感情がイエス様に対して盛り上がっている時はいいけれど、人間である以上、いつでも心が日本晴れ、というわけにはいかないですよね。
嫌なことがあれば落ち込むし、嫌なことを言われて相手を呪いたくなる時もあると思います。
そんな時に、聖書の御言葉はとても力になります。
御言葉を知らなければ、乗り越える術も分かりません。
聖書には神様の愛がどれだけ深いものであるかたくさん書かれているので、神様が自分をどれだけ愛して下さっているか知ることは、とても大切です。
自分を大切に思ってくれている人がいることは、とても心強いですよね。
そして、そんな神様に、自分の意思で従ったことが、愛の教えを全うする力になるのではないでしょうか。
大切なことは、たった2つ
神様の愛の教えとは、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛すること」と「隣人を自分のように愛する」ことです。
愛するためには、心と思いと知性と力を尽くさないといけないのですm(._.)m
それくらい、愛するって大変なことなのです。
一時的に盛り上がった感情だけで全うするなんて、不可能ですよね。
だから、聖書の御言葉という知性と、それを自分で学び、実行する意思が必要なのです。
それでも落ち込んだ時には
それでも激しく気持ちが落ちてしまってどうにもならないことも、あるかと思います。
そんな時に力になる御言葉を紹介いたします。
14 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。(ヘブル人への手紙4章14-15節)
イエス・キリストは神ですが、同時に人間でもあられました。
だから、殴られれば痛いし、お腹も空くし、酷いことを言われれば傷付くのです。
十字架にかかる時、イエス・キリストは人として、その痛みや苦しみを味わいました。
弟子に裏切られたり、父なる神様に見捨てられるという経験もされました。
十字架の刑って、古代ローマにおいて最も残酷な刑だと言われています。
肉体的にも精神的にも苦しい時に神様に見捨てられるなんて、想像しただけで恐ろしいです。
それでもわたしたちを愛しておられたから、わたしたちの罪を贖うために、その苦しみをお受けになりました。
イエス様は「俺はあの十字架の苦しみに耐えたんだから、それしきのことで弱音を吐くな!」なんて言う方ではありません。
他人には理解してもらえない苦しみを、理解して下さる方です。
なぜなら、人の痛みが分かる人であると同時に、人の理解を超えた神様であられるお方だからです。
だから「イエス様は十字架の苦しみに耐えられたのに、これしきのことも耐えられない自分は最低だ」なんて思う必要はないのです。
その弱さを告白して、助けてもらえばいいのです。
まとめ
以上が、この日のメッセージを聞いて感じた、わたしの感想です。
このメッセージを通じて、わたしは神様から「聖書を読むこと」の大切さを学んだ気がします。
わたしには今、赦したくても赦せない相手がいます。
キリストが十字架の苦しみを味わってまでわたしたちを赦したように、わたしたちも嫌いな人や理不尽な思いをさせられた相手を赦さないといけません。
たとえ相手が100%悪くても、赦せないといけません。
裁きは神が下すもの。人間が人間を裁いてはいけないのです。
それがキリストの教えであり、結果として、自分が苦しみから解放されることになります。
でも「赦さなきゃ!」とどんなに思っても、そう出来るものではありません。
理屈では分かっていても、感情がついていかない。
だから、自分の意思で聖書を読んで、自分の意思で神様の教えを知り、教えに従うことが必要なのだなと強く思いました。
赦すことは自分の力ではどうにもならないけど、聖書を読むことは、自分の意思で出来ますからね。
以上、ペパーミントあいがお届けいたしました。