[ai] 御言葉の権威と力!確信確証への根拠土台とは? | ペパーミントパラダイス

[ai] 御言葉の権威と力!確信確証への根拠土台とは?

こんにちは^ ^

ペパーミントあいです。

2015年7月5日、草加神召教会リバーサイドチャペルの日曜メイン礼拝に参加してきました!

この日は主任牧師の天野弘昌先生が説教して下さいました。
天野先生、いつも熱いメッセージ、ありがとうございます!

説教内容とは直接関係はないのですが、錦織圭選手のコーチのマイケル・チャンさんは、クリスチャンなんですね!

初めて知りました。

御言葉の権威と力〜確信確証への根拠土台〜

この日の説教は、御言葉(みことば)の力についてのお話でした。

御言葉とは、「聖書に書かれている言葉」のことを指します。
クリスチャンの間では、聖書に書かれていること=神様の言葉と捉え、「御言葉(みことば)」と呼んでいます。

新約聖書のヨハネによる福音書の中に、次のような箇所があります。

1 初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。2 この言は、初めに神と共にあった。3 万物は言によって成った。成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった。4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(ヨハネによる福音書1章1-5節)

ここで言われている「言(ことば)」は、イエス・キリスト自身を指すものと取ることも出来ますが、言葉(言)の強さや重要さを物語ってますよね。

また、旧約聖書の創世記では、神様が言葉を発する度に、光やあらゆる生き物が創造されていったと書かれているので、神様の言葉は相当権威あるものと考えられます。

わたしたち人間の世界でも、言葉の力は絶大です。

よく政治家が、ちょっとした失言が原因で失脚するというニュースを耳にしますが、似たようなことは、牧師さんの世界でもあるそうです。

ちょっと気に障る言い方があったり、誤解を招く表現があると、ネットで叩かれるし、聖書の解釈そのものに関して誤解を招くようなことを言えば、それこそ大問題になって失脚、なんてこともあり得るのだとか。

責任重大ですね。

でもそれだけ、言葉には絶大な影響力があることを物語っていると思います。

「口は災いの元」ということわざもあるけれど、本当に。。。

わたしたちは人の言葉によって激しく傷付いたり、力付けられたりします。

神様の言葉はもっと強く、言葉に力と権威を持っています。

新約聖書に以下のような箇所があります。

聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をする上に有益です。(テモテへの手紙二 3章16節)

というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して 心の思いや考えを見分けることができるからです。(ヘブライ人への手紙4章12節)

聖書、つまり、神様の御言葉の力強さを物語っていますよね。

御言葉の凄さを物語るいくつかのエピソード

ここで、御言葉の力強さを物語るいくつかのエピソードを紹介いたします。

天野先生の夢の話

天野先生はある日、暴力団に絡まれる夢を見たそうです。

その時夢の中で、先生は、ただ暴力団に殺られて死ぬなんて何の証にもならない、もっといい殉教の仕方がしたい、イエス様この状況をどうにかして下さいと祈りました。

すると急に力が与えられ、その場のボスらしき人物の弱点をつく言葉が次々出てき、ボスが急に震え出して、逃げていきました。

その時は、追い払うことが出来てやったぁと思いました。

でもその日のデボーション(個人礼拝)中、パウロとシラスが獄中で看守を悔い改めさせた箇所を読み、その暴力団の人達を救えなかったことに気付きました。

夢の中の話とは言え、イエス様を信じることなく逃げ出した彼らは、逃げた先でまた悪いことをします。

先生はただ言い負かしただけで満足し、福音を語っていなかったことに気付いて反省したそうです。

百合香先生の一言で救われた電気屋さんの話

天野先生がかつて伝道した人の中に、ある電気屋さんがいたそうです。

この方はちょっと色々あって一人で日常生活を送るのに不自由されていたため、先生が身の回りの世話をなさっておられたのですが、全然イエス様を信じてくれなかったとのこと。

でもある日、奥様の百合香先生がふと御言葉を語ったら、信じたそうです!

百合香先生は特に深く考えずに語ったようなのですが、その電気屋さんには物凄く響くものがあったようです。

たくさん聖書を読んで悪霊を追い出した兄弟の話

集会中、悪霊に取り憑かれた人がいたそうです。

(悪霊に取り憑かれた人をわたしは見たことがないのですが、実際にあるらしいです)

その場にいた天野先生や他の牧師先生が、悪霊を追い出そうと

「イエス・キリストの名によってこの人から出て行け!」

と命じても、なかなかダメージを与えられず、苦戦したようなのですが、ある兄弟(教会員)が

「イエス・キリストの名によってこの人から出て行け!」

と命じたら、悪霊が引きつけを起こして出て行ったそうです!

その兄弟は、よく聖書を読む人だったとのこと。

御言葉が染みついている人が言うと、同じ台詞でも重みが違うのでしょうか??

日々の聖書通読の大事さを教えられる出来事でした。

揺るがない確信は、永遠に残る御言葉からくる

クリスチャンの中には、自分の気持ちと神様の御心が混同した祈りをする人がいます。

残念ながら、クリスチャン歴の長い人や、牧師などの指導者にもいるそうです。

けれど彼らはその自覚がなく、自分の個人的な感情でそうしたいと思っているだけなのに「祈ってそう示された」と思い込んでいます。

でも、本当に示されたわけではないから、確証がなく、その人の心には平安がありません。

そんな気持ちで周りにそれを言って聞かせるものだから、周りも平安がありません。

こういう指導者の元にいるクリスチャンは、コントロールされ、萎縮してらしさがなくなっていくようです。

○ホバの証人とか、異端の宗教みたいですね。。。

では、御心なのか自分勝手な願望なのか見分けるには、どうしたらいいのでしょうか?

まず第一は、そのことによって平安があるかどうか。

そしてもう一つは、御言葉によって示されたものかどうかです。

聖書にはこのような箇所もあります。

天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。(マタイによる福音書24章35節)

御言葉は決して滅びなません。聖書は燃えても、御言葉は滅びないのです。

その神様の御言葉に土台を置いている人は、根拠のある自信です。
御言葉に土台を置いていない人は、根拠のない自信です。だから平安がないのです。

行き着く結果の確証は、御言葉がレーマとなること

「その御言葉による確証の行き着く先は、御言葉がレーマとなること」とのことでしたが、ちょっと意味がよく分かりませんでしたm(_ _)m

「レーマ」とは、思慮深さ、悟りを意味するそうなのですが……

レーマについて説明している御言葉を下記に引用させていただきます。

神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、(エフェソの信徒への手紙1章8節)

新共同訳聖書では「知恵と理解」となっていましたが、新解約では「知恵と思慮深さ」、「悟り」と訳されている聖書もあるそうです。

17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、18 心の目を開いて下さるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせて下さるように。19 また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。(エフェソの信徒への手紙1章17-19節)

難しくてよく分からないですが、「悟り」と考えるのが一番分かりやすくてしっくりくる気がします^^;

「知恵と啓示」と言った方がキリスト教っぽく、「悟り」と言うと仏教っぽい感じにはなりますが;;

全ての根拠の土台は、完全な愛が動機であること

新約聖書のコロサイの信徒への手紙の中に、以下のような箇所があります。

これらすべてに加えて、愛を身につけなさい。愛はすべてを完成させるきずなです。(コロサイの信徒への手紙3章14節)

いいこと、立派なこと、世間一般的に考えて正しいことをしているのに、何か鼻に付く人はいないでしょうか?

そういう人はたいてい、それを行っている動機がお金や名誉や人気を得ることであることが多いのです。

要は、自分が気持ち良くなるため。自己実現や自己保全も含まれます。

そこに他者への愛がないことを、人間って本能的に見抜くんでしょうね。

以下に、愛がなければ何の意味もないことをつきつける箇所を引用いたします。

1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。(コリントの信徒への手紙一 13章1-3節)

愛がなければ、全財産を寄付しても何の役にも立たないのです。

それをすることによって、物理的に助かる人はいるでしょうが、神様の目には適わない。

終わりの日に神様の前に出る時には「愛から行ったことじゃないでしょ?」と突きつけられて終わってしまうのです。

評価されようとしてしたところで、肝心な神様からの評価を得ることは出来ないのです。

「愛しなさい」というのが、神様の教えですからね。

愛が最も大事であること、愛の何たるかと教えているのが、聖書です。

だから、御言葉を拠り所にすることが大事なのです。

以上が、7月5日 リバーサイドチャペル 日曜メイン礼拝の説教の、わたしなりの解釈です。

このブログが、読んで下さった方へ何らかの形でお役に立てますように。。。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。ペパーミントあいがお届けいたしました!

スポンサーリンク