[ai] 受難週⑤ 最後の晩餐・最後の教えと祈り・ゲッセマネの祈り・イエスの逮捕 | ペパーミントパラダイス

[ai] 受難週⑤ 最後の晩餐・最後の教えと祈り・ゲッセマネの祈り・イエスの逮捕

こんにちは^ ^

ペパーミントあいです。

今日は受難週5日目 「最後の晩餐・最後の教えと祈り・ゲッセマネの祈り・イエスの逮捕」の行われた日に当たります。

受難週に関するブログを書くことにしたきっかけ

今通っている草加神召キリスト教会リバーサイドチャペルにて、このようなカードをいただきました。

受難週の出来事が全て、時系列順に、各福音書別に該当箇所を載せてくれています。

何て親切な!

せっかくこのような貴重なものをいただいたので、この機会に日々該当箇所を読み、率直な感想をまとめてみることにしました。

よろしければ、最後までお付き合いいただけると嬉しいです^ ^

受難週⑤-1 最後の晩餐

[ai] 受難週④ ユダの裏切り の続きです。

該当箇所は、新約聖書の以下の箇所です。

(マタイによる福音書26章17-29節)

(マルコによる福音書14章12-25節)

(ルカによる福音書22章7-20節)

(ヨハネによる福音書13章1-30節)

有名な、最後の晩餐の箇所です。

イエス様が逮捕される晩は、過越祭の日でした。

※マタイ、マルコ、ルカの福音書には「過越祭の第1日目」とありますが、ヨハネの福音書には「過越祭の前日」とあるので、正確なところは、ちょっと分かりません。

ここでイエス様と弟子たちは過越祭(か、その前日の独自の)食事をします。

ここで、パンとぶどう酒を飲む聖餐式も行われました。

パンはキリストの体、ぶどう酒はキリストの血に見立て、十字架で死んだキリストの肉と血を得ることによって、十字架による救いを受け入れ、キリストに従うことを意味します。

イエス様はここで、ユダが裏切ることも告げられます。

また、ヨハネの福音書には、この食事の前に、イエス様が弟子たちの足を洗ったことが書かれていました。

弟子たちに、人に仕える心を教えるために模範となられた模様。

また、足を洗うのは、当時のユダヤ人は外出前にお風呂に入る習慣があり、出かける前には全身浄くなるけれど、移動している間に足だけは汚れるから、出先に着いたら足を洗う、という習慣によるものでもありました。

洗礼を受けて全身清くなっても、歩んでいるうちにまた足は汚れる=罪を犯す。

だから洗わないといけない=その度に悔い改めなければいけない。

そのことを教えるためでもあったと考えられます。

時々、キリスト教を名乗る人たちの中にも「一度十字架を受け入れて聖霊に満たされれば、二度と罪を犯すことはない」とか「十字架で赦されるのは、キリストを受け入れる以前の罪だけだ」と言う人も見かけますは、それは間違いです。

そのような教えをする人たちは、異端であると考えていいでしょう。

受難週⑤-3 最後の教えと祈り

該当箇所は、新約聖書の以下の箇所です。

(ヨハネによる福音書13章36節-17章26節)

一言。

ものっっっすごく、長かったですm(_ _)m

基本一日1章しか読まないわたしには、膨大すぎて処理しきれず、頭がパンクしそうです>_<

でも、まとめて読んだことで、見えたこともたくさんありました。

この最後の教えと祈りは、ヨハネの福音書にしか書かれていないこと。

全体的に「愛」という言葉が多く、父なる神様が、イエス様がいかに愛に溢れた方であるのかが伝わる箇所であること。

わたしは今まで、教会の人たちの振る舞いから愛を感じることはたくさんありましたが、聖書を読んで直接愛を感じたことはなかったのですが、初めて感じることが出来ました。

具体的には、「キリストが昇天されたあと、聖霊が降ること」「宣教する弟子たちに患難が訪れること」「ご自身の栄光が示されるため、その後の弟子たちの働きのため、弟子たちの働きによって信じた人のためのお祈り」が書かれていました。

あと、イエス様がぶどうの木で私たちは枝である、という有名なたとえ話も。

イエス様が地上の生涯において話しきれなかったことは、のちに降る聖霊によって明らかにされます。

聖霊によって、弟子たちは地上におられた頃のイエス様よりも大きな奇跡を起こすことが出来ると、イエス様は言われています。

私たちも同様です。

でもそれは、イエス様が天におられて、聖霊を遣わし、力を与えて下さっているからなんですねぇ。。。

主はぶどうの木で、私たちは枝。

イエス様と繋がっていなければ、何もすることは出来ないのです。

受難週⑤-3 ゲッセマネの祈り

該当箇所は、新約聖書の以下の箇所です。

(マタイによる福音書26章36-46節)

(マルコによる福音書14章32-42節)

(ルカによる福音書22章39-46節)

(ヨハネによる福音書18章1節)

その後、イエス様は弟子たちを連れてゲッセマネというところでお祈りします。

「父よ、御心ならば、どうかこの杯をわたしから取り除いて下さい。でも、わたしの思うようにではなく、御心の通りになさって下さい」

復活されることが約束されていても、イエス様も人間。

神様だけれど、人間でもあられるイエス様。

死ぬこと、それも、神様の怒りに触れて裁かれることは、恐ろしかったに違いありません。

ルカの44節には「苦しみもだえて、汗が血のようにしたたった」とありますしね。

だから、出来ることなら死なないで済むようにしてほしい。

でも、自分の思う通りではなく、父なる神様の願う通りとなるように、祈られました。

とかく人は、神様にこの願いを叶えて下さいと自身の欲を願いがちですが、祈りとは、本来は神様の声を聞くこと。

託宣を仰ぐことです。

神様は便利屋ではありませんから、神様の御心を示してもらえるように祈ることが大切です。

受難週⑤-4 イエスの逮捕

該当箇所は、新約聖書の以下の箇所です。

(マタイによる福音書26章47-75節)

(マルコによる福音書14章43-72節)

(ルカによる福音書22章47-62節)

(ヨハネによる福音書18章3-27節)

イエス様を裏切ったユダが、祭司長や律法学者たち、その人たちに扇動された群衆を引き連れて、捕えにやってきました。

この時、弟子のペテロは、捕えに来た人の一人の耳を切り落としますが、イエス様は「剣を収めなさい。剣を持つ者は剣で滅びる」 と制し、切られた耳を癒します。

イエス様は大祭司カヤパのところに連れて行かれ、裁判にかけられます。

でも、扇動された人たちの証言はところどころ食い違い、一致しません。

そこでカヤパは「あなたは神の子キリストですか?」と尋ねました。

イエス様がその通りだと認めると、カヤパは「これ以上の証人が必要か!?今、彼ははっきりと神を冒涜した!」と憤慨。

他の群衆たちも、死刑にすべきだと言い出します。

彼らはイエス様のことをただの人だと思っていたので、そのように決めつけました。

でも、この群衆たちには、宮でイエス様が教えていた人たちもたくさんいて、イエス様の教えを聞いていたはずの人たちでした。

また、イエス様が捕まる時、弟子たちは恐れをなして逃げてしまいましたが、あとでシモン・ペテロは、こっそりあとをつけて、大祭司カヤパの屋敷に潜入します。

でも、その屋敷の者たちに「あなたもあのイエスって人の仲間でしょう?」と言われると「そんな人は知らない」と答えました。

イエス様は捕まる前、ペテロに「あなたは鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言うだろう」と言われていましたが、その通りになりました。

細かい部分は各福音書によって微妙に違うのですが、大筋は、こんな感じです。

ペテロといい、群衆たちといい、人って、弱くて惑わされやすいものですね。

私たちもこの人たちと同じ人間であることを、忘れてはいけません。

以上、ペパーミントあいがお届けいたしました。

次回は 受難週⑥ ピラトの裁判・十字架の道と死・イエスに埋葬 に続きます。

お楽しみに。

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