こんにちは^ ^
ペパーミントあいです。
今日は創世記46章を読みました。
創世記46章
[ai] 創世記45章 ヨセフ、身を明かすの続きです。
本章には
- ヤコブのエジプト下り
- ゴシェンでの再会
※サブタイトルは新共同訳聖書より
以下は、受洗9ヶ月目のわたしが本章を読んだ感想です。
解釈には注釈、解説書、教会で得た知識等を総動員させていただいておりますが、聖書について詳しくお知りになりたい方は、お近くの教会へ行って、牧師先生に聞いてみて下さいね^ ^
ヤコブのエジプト下り
ヨセフが生きていること、エジプトから呼んでいることを知ったヤコブは、一家をあげてエジプトへ旅立ちます。
ヤコブはべエル・シェバまで来ると、そこで神様に生贄をささげました。
エジプトへ行くことに不安があったからだと思われます。
その夜、神様は幻の中でヤコブの前に現れ、
「エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはそこであなたを大いなる国民とする。わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう」
と言われました。
「ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう」というのは、ヤコブはエジプトで生涯を終えてヨセフに見取られる、という意味に取れるので、「あなたを連れ戻す」というのはヤコブ本人のことではなく、子孫のイスラエル民族のことであると思われます。
あとは、エジプトへ下ったヤコブの家族の名前と人数が書かれていました。
息子の妻を除けば66名、総数は70名とありますが、この時点ではすでに死んでいるであろうエルとオナン、すでにエジプトにいるヨセフとその息子、この時点で生まれているか分からないベニヤミンの息子やペレツの息子までカウントされているので、正確なところはよく分かりません。
※ユダの息子のエル、オナン、ペレツについては、下記をご参照のこと。
ゴシェンでの再会
ヤコブとヨセフはゴシェンというところで再会します。
ヤコブが一足先にユダを遣わして、ヨセフをゴシェンに呼んだようです。
ヨセフは「父を見るやいなや、父の首に抱きつき、その首にすがったまま、しばらく泣き続けた」(29節)とあるので、相当お父さんに会いたかったようです。
ヤコブはヨセフに言いました。
「わたしはもう死んでもいい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから」
父との感動の再会を終えると、ヨセフはヤコブと兄弟たちに言いました。
「ファラオがあなたたちをお召しになって『仕事は何か?』と言われたら『先祖代々、幼い時から今日まで家畜の群れを飼う者でございます』と答えて下さい。そうすれば、あなたたちはゴシェンの地域に住むことができるでしょう」
羊飼いは、エジプト人にはいとわれている職業でした。
それをあえて言わせたヨセフの意図は、家族がエジプト人との生活から隔離されて異教に染まらないようにすることと、牧畜に最適なゴシェンの地に住むことが出来るからと考えられます。
感想
ヤコブとヨセフの感動の再会の場面です!
ヨセフに対しては、可愛がってくれたお父さんに一番会いたかったでしょうから、もうよかったねとしか言いようがないです^ ^
一方ヤコブは、ヨセフが生きていたこと、エジプトから呼んでいることに、神様の導きを感じて出発したものとは思いますが、エジプトへ行くことには不安もあった模様。
エジプトではかつて、祖父アブラハムが妻を「妹です」と偽る失敗を犯し、父イサクはエジプトへの出入り禁止令を神様から出されていたので、エジプトに対していいイメージはなかったかと思います。
だから、生贄をささげて祈ったものと思われます。
神様の導きを感じていながら、何か確証が持てなくて不安になることは、クリスチャンでもあります。
でもそんなわたしたちに、神様は「恐れるな」と言って背中を押して下さる方なのです。
でも、祈らないことには、答えは得られない。
だから不安や恐れがある時には、自分でどうにかしようとする前に、まず祈ったらいいと思います。
神様は聖書の御言葉や、その他様々なものを通して、わたしたちに語りかけて下さいます。
以上、ペパーミントあいがお届けいたしました!
次回は [ai] 創世記47章 ファラオとの会見〜ヤコブの遺言 についてお届けいたします。
お楽しみに!