こんにちは^ ^
ペパーミントあいです。
今日は創世記36章を読みました。

創世記36章
[ai] 創世記35章 再びベテルへ〜イサクの死の続きです。
本章には
- エサウの子孫
- セイルの子孫
- エドムの王国
※サブタイトルは新共同役聖書より
について書かれていました。
以下は、受洗8ヶ月目のわたしが本章を読んだ感想です。
解釈には注釈、解説書、その他教会で得た知識などを総動員させていただいておりますが、聖書についてお知りになりたい方は、お近くの教会へ行って、牧師先生に聞いてみて下さいね^ ^
エサウの子孫(1-19)
エサウの直系の子孫のついて書かれていました。
ただ、妻の名前が、26章34-35節、28章6-9節にある記載と合っていません。
エサウは家族と使用人、家畜、カナンで手に入れた財産全てを持って、セイルの山地に移り住みました。
ヤコブがラバンの元から故郷へ戻って来た時、エサウはすでにセイルに住んでいましたね。
その後セイル地方で生まれたエサウの子孫やその地域の首長たちの名前が書いてありました。
セイルの子孫(20-30)
ここにはセイル人の原住民の家系について書かれているようです。
エサウの奥さんの名前もあります。
エドムの王国(31-43)
ここにはイスラエル王国建国以前、エドム地方を治めていた王たちの名前が書いてありました。
エドムの王様は世襲制ではなかったようです。
感想
エサウはそれなりに栄えて、平和な人生を送った模様です。
ただ、神様からは離れていたようです。
解説書には「エサウは平穏に人生を送ったが、そこに神への飢え渇きはなかった。ヤコブは自業自得とはいえ波乱万丈な人生を送ったが、そのことを通して神への飢え渇きを学んだ」とありました。
ここでクリスチャンなら、「そうか、平穏な人生でも神様を信じないのは問題だな。神への飢え渇きを学べたヤコブの方が幸せだ!」と、思わないといけないんだろうなとは思うのですが、正直、心からそうは思えずにいます。
ヤコブにとってそれは良かったことだと思うのですが、エサウにとって不幸だったとは思えないので。
何というか、エサウは抜けているかもしれないけど、いい人ですよね。
ヤコブのようなずる賢い人は痛い目を見て神様の偉大さを学ぶことは必要だったと思いますが、エサウのようなさばさばした人には、神様は必要ないんじゃないかと思えてしまうのです。
いや、神様信じている人がこんなこと思っちゃいけないのですが。。。
でも、痛い思いや苦しい思いをして神様を求めるようになるのと、特に神様を求めることなく平穏に一生を終えるのとどちらがいいのか。
クリスチャンなら迷わず前者と答えなければいけないのでしょうが、わたしの正直な気持ちは、後者なのです。
苦しい思いはしたくありません。。。
納得のいく答えが得られるよう、祈ろうと思います。。。
得られたら、またアンサー記事を書こうと思います。
以上、ペパーミントあいがお届けいたしました!
次回は [ai] 創世記37章 ヨセフの夢〜ヨセフ、エジプトに売られる についてお届けいたします。
お楽しみに!