こんにちは^ ^
ペパーミントあいです。
今日は創世記33章を読みました。

創世記33章
[ai] 創世記32章 エサウとの再会の準備〜ペヌエルでの格闘の続きです。
本章には
- エサウとの再会
※サブタイトルは新共同訳聖書より
について書かれていました。
以下は受洗8ヶ月目にわたしが本章を読んだ感想です。
解釈には解説書、聖書の注釈等を参考にさせていただいておりますが、よりお知りになりたい方は、お近くの教会へ行って、牧師先生に聞いてみて下さいね^ ^
エサウとの再会
ペヌエルで神様の使いと格闘したヤコブは、エサウと再会します。
ヤコブは自らが先頭に立つと、その後ろに側女とその子供たち、更に後ろにレアとその子供たち、そして一番後ろにラケルとヨセフを配置し、エサウの前にひれ伏します。
エサウは走ってきてヤコブを抱きしめ、口付けて共に泣きました。
エサウは尋ねました。
「今、わたしが出会ったあの多くの家畜は何のつもりか」
ヤコブが「御主人様の好意を得るためです」と答えると、エサウは
「弟よ、わたしのところには何でも十分ある。お前のものはお前が持っていなさい」
と言いました。
「いいえ。もしご好意をお受け取りいただけるのであれば、どうぞ贈り物をお受け取り下さい。兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます。このわたしを温かく迎えて下さったのですから。どうか、持参しました贈り物をお納め下さい。神がわたしに恵みをお与えになったので、わたしは何でも持っていますから」
ヤコブがしきりに勧めるので、エサウは贈り物を受け取りました。
エサウは自分の住んでいるセイルへ一緒に行こうと誘いますが、ヤコブは子供たちと家畜の体力を理由に「後から行く」と言って断りました。
エサウは、自分の供を何人か残そうと申し出ましたが、ヤコブはそれも断りました。
エサウが帰って行くと、ヤコブはセイルへは行かず、スコト(小屋)というところへ行き、自分の家を建て、家畜の小屋を作りました。
そして、宿営した土地の一部を買い取り、そこに祭壇を建て、それをエル・エロへ・イスラエルと呼びました。
二通りの解釈
本章の解釈は、聖書の注釈と解説書で分かれました。
解説書では、ヤコブについて
「ペヌエルでの格闘で砕かれた心を持ったばかりだというのに、もうエサウにへつらっている。理由をつけてセイルへは行かず、あとから行くという約束も果たしていない」
エサウについては
「昔あったいざこざのことなど忘れてあたたかく迎えてくれるいい人」
とありましたが、注釈では、
「砕かれた心を持ったヤコブはもうエサウを恐れていないので、自らが先頭に立った。ヤコブが先頭に立つ姿を見て、エサウも警戒心が解けて抱きしめてくれた。エサウがあたたかく迎えてくれたので、ヤコブには本当にエサウが神様のように見えて、贈り物はご機嫌取りではなく、心からのものとなった。セイルへ行かなかったのは本当に子供と家畜のことを心配したのと、神様についていくことを第一にしたいから寄り道はしなかった。あとから行く、というのは、いつか行くという意味」
となっていました。
だいぶ違いますね(^_^;)
前者では、ヤコブがただひらすら嫌な奴で、エサウはひたすらいい人。
一方後者では、ヤコブは悔い改めていい人になっていて、エサウはそんなヤコブの姿を見たから赦すことが出来た、となってますもんね。
実際のところはヤコブとエサウに聞いてみないと分からないですが、後者であってほしいです(笑)
感想
聖書って、解釈によって全然意味が変わってきますね。
聖書に限らず、なんでもそうですが(^_^;)
ただ、どちらの意味合いだったとしても、学べることはあります。
前者の解釈なら、一度神様の前に心を砕かれても、すぐ元に戻るほど人間は弱い者であることが学べるし、
後者なら、心を砕かれても変わることによって、相手の気持ちを変えることも出来る、全てが良くなることを学ぶことが出来ると思います。
いやぁ、聖書って実に、よく出来てますね!
以上、ペパーミントあいがお届けいたしました!
次回は [ai] 創世記34章 シケムでの出来事 についてお届けいたします。
お楽しみに!