こんにちは^ ^
ペパーミントあいです。
今日は創世記 3章を読みました。

創世記 3章
本章のサブタイトルは「蛇の誘惑」
※サブタイトルは新共同訳聖書のサブタイトルより
世界で最初の人間、アダムとエバは、エデンの園で神様と仲良く暮らしていました。
神様は園のどの木からも取って食べていいけれど、善悪を知る木の実だけは絶対に食べてはならないとおっしゃいました。
でも、蛇がやってきて、エバを誘惑し、エバがアダムにも薦めたので、二人ともその木の実を食べてしまいました。
結果、二人はエデンの園を追放され、人間の中に罪と死が入ってくることになりました。
以下は受洗半年のわたしが個人的に思った感想です。
聖書をよくお知りになりたい方は、お近くの教会へ行って、牧師先生に聞いてみて下さいね^ ^
罪の大元は、自分が神になろうとすること
わたしが本章で注目したのは、以下の箇所です。
4 蛇は女に言った。
「決して死ぬことはない。 5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」(創世記3章4-5節)
上記は新共同訳聖書からの引用ですが、別の注釈付きの聖書には、
「罪とは、人間が神々になろうとするところから始まる」
とありました。
本来、善悪を判断し、裁くのは神様の役割であったはず。
けれどもアダムとエバが善悪を知る木の実を食べたことで、人間が自分勝手に善悪を判断し、裁くようになってしまいました。
「裁く」というのは、何も正式な裁判に限ったことではありません。
自分が気に入らないから「あいつは最低だ!悪い奴だ!」と善悪を決めつけてかかることも、聖書学的には、裁いていることになります。
人間の気持ちは変わりやすいものです。
機嫌が良ければいい人に見える人も、機嫌が悪いと悪者に見えたりします。
そんな不確かな物差しの人間が善悪を判断し、人を裁くなんて、本来あってはならないはずです。
だから、裁くことは神の領域なんです。
その領域に入り込んでしまったことが、罪の大元「原罪」なのです。
罪とは「自己中心」
礼拝の説教などではしばしば「罪とは自己中心」と言われます。
本来神様が裁くべきことを、人間が自分勝手に自分の感情だけで決めつけて裁く。
神様の判断を無視して自分勝手に生きる。
このことが、世間一般に言われる「罪」と呼ばれることに、結果的に繋がっているのではないでしょうか?
以上、ペパーミントあいがお届けいたしました。
次回は [ai] 創世記 4章 〜カインとアベルと剣の歌〜 についてお届けいたします。
お楽しみに!