こんにちは^ ^
ペパーミントあいです。
今日は出エジプト記5章を読みました。
出エジプト記5章
[ai] 出エジプト記4章 使命に伴うしるし〜モーセ、エジプトに戻る の続きです。
本章には
- ファラオとの交渉(1-23節、6章に続く)
※サブタイトルは新共同訳聖書より
について書かれていました。
以下は、受洗9ヶ月目のわたしが本章を読んだ感想です。
解釈には注釈、解説書、教会で得た知識等を総動員させていただいておりますが、聖書について詳しくお知りになりたい方は、お近くの教会へ行って、牧師先生に聞いてみて下さいね^ ^
ファラオとの交渉(1-23節)
神様から召令を受けたモーセとアロンは、さっそくファラオのところに出向き、交渉します。
「イスラエル人の神様が現れてこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのための祭りを行わせなさい』だからわたしたちの神に生贄をささげるため、イスラエルの民をエジプトから去らせて下さい」
けれども、自分が神だと思っているエジプトのファラオは、聞く耳を持ちません。
それどころか、モーセの言ったことに腹を立てて、イスラエル人の労働条件をますます厳しくしました。
レンガの材料の藁を支給するのをやめて、藁が支給されていた時と同数のレンガを納めろ、という、無理難題を課してきました。
そして出来なければ、エジプト人から暴行を加えられる。
もう、国家ぐるみでのブラック企業ですね。
そのため、初めはモーセの召令を喜んで神様を礼拝していたイスラエル人たちも手のひらを返し、モーセとアロンをなじるようになりました。
「どうか主があなたたちに現れてお裁きになるように。あなたたちのせいで、我々はファラオとのその家来たちに嫌われてしまった。我々を殺す剣を彼らに渡したのと同じです」
モーセは神様に訴えました。
「我が主よ、あなたはなぜ、この民に災いをもたらすのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか!?わたしが御名によって語るためにファタオの元に行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたはいっこうに御自分の民を救い出そうとはなさいません!」
感想
神様に言われた通りのことをしているのに、事態はいっこうに良くならない。むしろ、かえって悪くなっている。
そうなると、「神様は全然助けてくれない」「この神様は間違いだった」「神様なんて本当はいないんだ」となってしまうこともあると思います。
この手のひらを返し出したイスラエル人がまさにそうで、神様が自分たちの苦悩を覚えて救い出してくれると聞いた時には喜んで礼拝したのに、思い通りにならないと、神様の言う通りに行動したモーセとアロンに向かって「神があなたがたをお裁きになりますように」なんて言い出すんですね。
神様の御心と自分の「お心」を勘違いしてしまっています。
ファラオが自分達を苦しめるようになるのが神様の御心のはずがない、よって彼らの言っていたことは嘘だ、となってしまっているんですね。
でも、ファラオが初めは言うことを聞かないのは最初から知らされていたことだし、神様の与えて下さる希望は、長い長いトンネルを抜けたさらに先であったりするのです。
事態がますます悪くなり、同胞のイスラエル人からもなじられたモーセは、それは苦しかったものと思います。
でもモーセが他のイスラエル人と違って褒められるべきことは、なじってきたイスラエル人を裁いたり言い争いをするのではなく、不満を神様に直接ぶつけたことです。
壁にぶち当たった時こそ、目の前の問題ではなく主に目を向けることが大切だなと、改めて思います。
以上、ペパーミントあいがお届けいたしました!
次回は [ai] 出エジプト記6章 ファラオとの交渉〜アロンの役割 についてお届けいたします。
お楽しみに!