こんにちは^ ^
ペパーミントあいです。
今日は出エジプト記24章を読みました。
出エジプト記24章
[ai] 出エジプト記23章 契約の書(11)法廷において〜違反に対する警告 の続きです。
本章には
- 契約の締結(1-18節)
※サブタイトルは新共同訳聖書より
について書かれていました。
以下は、受洗10ヶ月目のわたしが本章を読んだ感想です。
解釈には注釈、解説書、教会で得た知識等を総動員させていただいておりますが、聖書について詳しくお知りになりたい方は、お近くの教会へ行って、牧師先生に聞いてみて下さいね^ ^
契約の締結(1-18節)
モーセが、かの有名な十戒を受け取りに、神の山に登っていく場面が描かれています。
この時、イスラエルの一般市民は山に登ってはいけない、
アロン、ナダブ、アビフ、および70人の長老と一緒に山に登ること、
神様に近付いていいのはモーセだけ、と神様は言われました。
モーセと一緒に山に登った長老たちは、神様の栄光を見て、飲み食いをしました。
※聖書には「彼らは神を見て、食べ、また飲んだ」とありますが、神様の前に来ていいと言われたのはモーセだけなので、神様の気配を感じながら、と解釈した方が良いかと思われます。
モーセは長老たちに「何かあったら、アロンとフルに言いなさい」と言い残して、石の板を受け取るため、従者のヨシュアを連れて、更に山を登っていきました。
感想 : 心に残った御言葉
彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。(出エジプト記24章11節)
冷静に考えたら、凄いことではないでしょうか?
神様がすぐそこにいるのに、ふつうにごはん食べてるんですよ!
ひょっとしたら、お酒も飲んでるかもしれないんですよ?
明らかに神様だと分かる神様の気配を感じて、そんな日常的なこと、出来ます??
でも、神様を信じることの本質って、そういうことなのです。
教会に行ったり、聖書を読む時だけ心が洗われるのではなく、
いつでも、どこでも、神様がそばにおられることを意識して、日常生活を送ることなのです。
もちろん、教会での礼拝は特別な場所です。
一人で聖書を読んでお祈りする時間も、聖別しないといけません。
でも、その時だけ心を清くして、礼拝が終わったら神様の存在を忘れてもいけないのです。
逆に、神様を聖別し過ぎて、日常生活と境界線を引きすぎるのも、間違いです。
聖別することにばかり一生懸命になっては、礼拝は儀礼化してしまい、中身のないものになってしまいます。
「わたし今凄く精神が病んでるから、こんな気持ちで神様の前には出れないわ」
「今物凄く醜い怒りの感情でいっぱいだから、とても神様の前には出れないわ」
と思って、礼拝を拒否してしまってもいけません。
むしろそういう時こそ、藁にもすがる思いで教会へ行き、心を砕いてお祈りするべきだと、わたしは思います。
以上、ペパーミントあいがお届けいたしました!
次回は [ai] 出エジプト記25章 幕屋建設の指示〜燭台 についてお届けいたします。
お楽しみに!