こんにちは^ ^
ペパーミントあいです。
今日は出エジプト記12章を読みました。
出エジプト記12章
[ai] 出エジプト記11章 最後の災い の続きです。
本章には
- 主の過越(1-28節)
- 初子の死(29-36節)
- エジプトの国を去る(37-42節)
- 過越祭の規定(43-51節)
※サブタイトルは新共同訳聖書より
について書かれていました。
以下は、受洗9ヶ月目のわたしが本章を読んだ感想です。
解釈には注釈、解説書、教会で得た知識等を総動員させていただいておりますが、聖書について詳しくお知りになりたい方は、お近くの教会へ行って、牧師先生に聞いてみて下さいね^ ^
主の過越(1-28節)
ファラオが「初子を打つ」という神様の最後の警告を聞き入れなかったので、神様はいよいよ、その時を迎える準備を、モーセを通してイスラエルの民に伝えます。
神様は「エジプト人の初子だけを打つ」と明言されましたが、今回ばっかりは、イスラエル人も何もしないで待っていていいというわけにはいきませんでした。
神様が降りてくる前に、傷のない一歳の雄の子羊を用意し、これを焼いて屠り、その晩のうちに家族で残らず食べ、その血を門の柱に塗っておく ように言われました。
この門の血を見て、神様はイスラエル人の家を区別し、中に入って初子を打たない、というのです。
神様がその家を「過ぎ越される」ことから、これを「主の過越」と呼びます。
これが、その後も代々イスラエルの間で続く「過越祭」の起源と言われています。
神様は今後、毎年この儀式を守るように言われました。
それは、この日に神様がイスラエルの民をエジプトから救われたことを、民が忘れないため。子供にも話して聞かせるように言われました。
またこの段落には、この月をイスラエルの正月とすること、子羊の肉を食べるときに酵母の入っていないパンと苦菜を添えて食べること、生で食べたり煮て食べてはいけないことなどが書かれていました。
また、過越祭のあとには「除酵祭」という、酵母の入っていないパンを食べなければいけない期間を設けなければならないことも書かれています。
初子の死(29-36節)
そして真夜中になり、神様はエジプトの国で全ての初子を打ちました。
ファラオの初子から牢屋に繋がれている捕虜の初子、家畜の初子もことごとく打たれました。
皆異変に気付き、ファラオも家臣もその他のエジプト人も、夜中のうちに起き上がりました。
死人が出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こりました。
ファラオは夜中のうちにモーセとアロンを呼び出します。
「さあ、わたしの民の中から出て行くがよい、あなたたちもイスラエルの人々も。あなたたちの願っていたように、行って主に仕えるがよい。羊の群れも牛の群れも、連れて行くがよい。そして、わたしをも祝福してもらいたい」
エジプト人たちは、このままでは自分たちも殺されると思い、イスラエル人たちにはやく出て行くよう急かします。
イスラエル人たちは、神様の言われた通り、エジプト人から金や銀の装飾品や着る物を求めました。
神様はエジプト人がイスラエル人に対し好意を得させるようにされたので、エジプト人たちは快く求めに応じました。
エジプトの国を去る(37-42節)
イスラエルの人々は、大急ぎでエジプトを出発しました。
道中の食料を用意する時間もありませんでしたが、このチャンスを逃すまいと出発しました。
その数は成人男性だけで60万人はいたとのこと。
また、エジプトで奴隷にされていた種々雑多な外国人も含まれていました。
(この人達は、後々トラブルを起こすことになります)
イスラエルの人々がエジプトに住んでいた期間は、430年とのことです。
過越祭の規定(43-51節)
前の段落で語られなかった、過越祭の細かい規定が書かれています。
- 外国人は過越の犠牲は食べられない
(ただし、お金で買われた男奴隷で、割礼を受けた者はOK) - 滞在している人や雇い人は食べられない
- 一匹の羊は一軒の家で食べ、肉の一部でも家の外に持ち出してはいけない。骨を折ってもいけない。
- イスラエルの共同体全体でこれを祝わなければならない
- 割礼を受けた寄留者は食べてもOK。(割礼を受けた時点でイスラエル人と同様にみなされる)
- この規定は、その土地に生まれた者にも寄留者にも、同様に適用される
感想
とうとうファラオが神様の言うことを聞き、イスラエルの民を去らせました。
主なる神様の完全なる勝利です!
そして、イスラエルの民はそのことを忘れないために、過越祭を毎年行うことになりました。
このように起源を思うと、その儀式に対しての思い入れも変わってきますよね。
決められた儀式だからとただ儀礼的に行うのと、その起源を思い、意味を噛み締めながら行うのとでは、全然変わってくると思います。
エジプトから救い出された、贖われた感謝が、時とともに過去のものとして忘れられていいわけがありません。
ただ伝聞で伝えていくだけだと、代が変わるにつれて次第にリアリティが薄れていき、いずれ忘れられてしまうから、神様は儀式としてしっかり残すようにされたのだなと思いました。
親の代の話だから、親の親の代の話だから過去のこと、自分には関係ない、となってはいけないと思います。
以上、ペパーミントあいがお届けいたしました!
次回は [ai] 出エジプト記13章 初子の奉献〜火の柱、雲の柱 についてお届けいたします。
お楽しみに!