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[ai] 人生の意味は、キリストとの関係によって見出すことが出来る!

こんにちは^ ^

ペパーミントあいです。

少し間があいてしまいましたが、2016年4月13日 草加神召教会リバーサイドチャペルの水曜祈祷会に参加させていただきました。

草加神召キリスト教会リバーサイドチャペルの水曜祈祷会

草加神召キリスト教会リバーサイドチャペルは、東京スカイツリーライン 松原団地駅より徒歩5-10分ほどのところにある教会です。

祈祷会は毎週水曜日 19時半から行われています。

詳しくは下記教会HPをご確認いただければと思います。

=== リバーサイドチャペル 草加神召キリスト教会 ===

この日のメッセンジャー

当教会のイベス宣教師がお話して下さいました。

イベス先生の過去のメッセージにつきましては、下記記事をご参照のこと。

人生の意味は、キリストとの関係によって見出すことが出来る!

「わたしは何のために生きているんだろう?」と、誰しもが一度は、考えたことがあるのではないでしょうか?

そんなことをいちいち気にしていたら生きていけない、と、考えることを断念してしまわれた方も多いのではと思います。

でも、何か人生の意味を見出すことの出来ている人は、いきいきしているのではないでしょうか?

わたしたちクリスチャンは、人生の意味は造り主であるイエス・キリストとの関係によって見出すことが出来ると考えています。

人生は一度きり。無意味に過ごす時間はもったいない

「一度きりの人生。楽しまなきゃ損でしょ!」

と、思っておられる方も、多いかと思います。わたしも同感です。

聖書にも、わたしたちの生きている時間はすぐに過ぎ去る、と書いてあります。つまらないことや、何の役にも立たないことに費やすのは、もったいないですよね。

今日が楽しければそれでいい。そんな生き方もあると思います。でも、楽しいだけでは何か虚しい、と感じてしまうことはないでしょうか?

聖書には、わたしたち人間は、神様の栄光を世に現すために造られた、とあります。

「ごちそうを食べた喜びはすぐに消えてしまうけれど、人の役に立てた喜びはずっと残る」というお話を、以前どこかで聞いたことがあります。

わたしたち人間は、本能の部分で、人の役に立ちたい=神様の役に立ちたいという思いを持っているのかもしれません。

自分の楽しみだけにふける生き方は虚しい

旧約聖書に出てくる偉人に、ソロモンという王様がいます。

彼は偉大な父・ダビデのあとを継いで、イスラエルの王になりました。

ソロモンはイスラエルに立派な神殿を建て、ソロモン王の時代のイスラエルはとても栄えました。

でも、次第に神様を忘れ、自分の享楽のためばかりに生きるようになりました。

とても栄華を極め、好き放題に生きてきたソロモンの最後の言葉は「空の空。すべては虚しい」でした。

そして「人生の意義は神を畏れ、神の命令を守ることである」という結論に至りました。

このソロモンの人生から学ぶべきことは、大いにあるのではないでしょうか?

平安のない生き方はすべきではない

わたしたちは、人の役に立つこと、神様の役に立つことで、心に喜びと平安を得ることが出来ます。

にもかかわらず、人のことを顧みず、自分の享楽のためばかりの生きる人がいるのは、なぜでしょう?

そこには、「死」の恐怖があって、本当の意味での平安を得ることが出来ていないからであると考えられます。

どうせ死んじゃうんだからと思うと、誰かのためになんて生きるのはバカバカしい、自分のためだけに生きたい、と、本来の「人の役に立ちたい」という欲求が見えなくなってしまうのです。

イエス・キリストの十字架の救いを受け入れ、救いの確信を得ることによって、本当の平安を得ることが出来ます。

これが人生の土台になっていないと、人は不安で、すぐに迷走してしまうのです。

父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。
(ヨハネの福音書6章37節)

たとえクリスチャンになって、救いを受け入れていたとしても、どこかで受け入れきれていないと「わたしは命の書から名前を消されるのではないか?」という不安から、救いが見えなくなってしまいます。

そのような方は、上記の御言葉を噛み締めて下さい。。。

救われたのなら、良い行ないをすべき

新約聖書に、以下のような箇所があります。

8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。
(エペソ人への手紙2章8-10節)

イエス・キリストの十字架の贖いは、わたしたちが何かいいことをしたから受けられる、というものではありません。

何もしなくても、ただ信じれば、受けることが出来ます。

救いはすでに用意されていて、あとはそれを受け取るだけでいいのです。

でも、救いを受け取るということは、「イエス・キリストを神と信じ、従うこと」も意味します。

イエス・キリストに従うのであれば、イエス・キリストの教え=聖書の教えは守るべきです。

聖書には「私たちは良い行いをするために造られた」とあるので、良い行ないをするべきなのです。

そして、「その行いをもあらかじめ備えてくださった」とあります。

聖書の中にすでに示されているのです。

聖書で命じられている教えを一つ一つ忠実に守ることによって、それを為すことが出来ます。

そうすることによって、わたしたちは、わたしたちの造られた本来の目的、神様の栄光を現すことが出来ます。

光は必要な人の元に灯すべき

では、今更ですが、良い行いとは何でしょうか?

具体的に数え上げればキリがないですが、いずれも、光を必要な人の元に届けることであると思います。

ここで言う光とは、イエス様の無条件で無限大の愛のこと。

イエス様の愛を知らない人たちにこそ、それは必要です。
イエス様の愛を知らない人がイエス様の愛に触れる時、その人の中で何かが起こるはずです。

また、すでにクリスチャンになったからといって、もう愛の教えは必要ないかと言われれば、それも間違いです。

不完全な私たちは、ちょっとしたことですぐ迷うし、落ち込みます。神様を見失います。

そんな仲間がいたら「お前はクリスチャンなのにそんなことも分からないのか!聖書の教えを忘れる馬鹿者め!」などと罵ってはいけません。

裁くことを、聖書は求めてはいません。

その人が忘れてしまっている、もしくは、まだ見えていない教えを伝えてあげるべきです。

その人の心がイエス様の愛で満たされるよう、一緒にお祈りしてあげるべきでしょう。

人生の意味はキリストとの関係によって見つけることができる!

良い行ないのしかたも、人によって様々です。

たとえば、「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28:19)という大宣教命令を果たすためにたくさん友達に伝道する人もいれば、直接的な伝道はしないけれど、ただ黙って小さな愛の教えを実行することで、イエス・キリストの愛を示し、種を蒔く人もいます。

小さな愛の教え実行することも、間接的に「伝道している」と言えるでしょう。

自分はどうやって神様の役に立ったらいいのか、分からなければ、まずは、あなた自身がイエス様との関係を深めることをオススメいたします。

祈ったり、聖書を読んだり、礼拝のメッセージをよく聞くことで、イエス様から教えていただくことが一番なのではないでしょうか?

イエス様の教えを知らないことには、「出て行って」「イエス様が教えたことをすべて守るように教える」ことは出来ません。

祈り、御言葉をよく学ぶことによって、あなたの進むべき道をイエス様が示して下さるはずです。

教えを語ることによって、心は燃やされる!

人は学んだことを、誰かに教えることによって、それをより自分のものとして定着させることが出来ます。これは聖書に限らず、学校の勉強でも、ビジネスの勉強でも同様です。

教えることによって自分の中に定着させることを「アウトプット」と呼ぶそうです。

なので、御言葉を学んだら、知識としてストックしておくだけでなく、それを実生活の中で実践していくことが大切です。

御言葉は自分の口で語り、実行することによって、初めて、あなたの中で定着します。

知っているだけでは、まだ半分しか理解していないと言えます。

あなた自身が語り、あなた自身が実行することによって、愛の教えはあなたの中で定着し、周りを幸せにしていきます^ ^

示された御言葉を忠実に実行していくことで、あなたの進むべき道は自ずと見えてくるはずです。

あとがき

すみません。実際に語られたメッセージは、ちょっと共感できない部分が多かったので、共感出来た部分だけを抽出して私なりの言葉で語らせていただきましたm(_ _)m

実際のメッセージとはだいぶ違うということだけ、ご了承いただければと思います^

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

以上、ペパーミントあいがお届けいたしました。

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