こんにちは^ ^
ペパーミントあいです。
今日はレビ記4章を読みました。
レビ記4章
[ai] レビ記3章 和解の献げ物 の続きです。
本章には
- 贖罪の献げ物(1-35節、5章に続く)
※サブタイトルは新共同訳聖書より
について書かれていました。
以下は、受洗1年目のわたしが本章を読んだ感想です。
解釈には注釈、解説書、教会で得た知識等を総動員させていただいておりますが、聖書について詳しくお知りになりたい方は、お近くの教会へ行って、牧師先生に聞いてみて下さいね^ ^
贖罪の献げ物(1-35節、5章に続く)
様々な献げ物のやり方のついて書かれているレビ記。
4章には「贖罪の献げ物」についての決まりが書かれていました。
ここで言われている「贖罪」とは、故意ではなく、うっかりおかしてしまった罪のこと。
さすが義の神様。
故意でないとはいえど、「故意じゃないんだったらいいよ」というわけには、いきません。
でも、故意におかした確信犯とそうでない場合の区別があるところは、愛の神様ですね^ ^
ここでは、大祭司が罪を犯した場合、民全体が罪を犯した場合、民の代表者が罪を犯した場合、一般の人が犯した場合とで、儀式のやり方が区別されていました。
大祭司と民全体が罪を犯した時は「若い雄牛」を、
代表者が罪を犯した時は「無傷の雄山羊」を、
一般の人が罪を犯した場合は「無傷の雌山羊か雌羊」を、焼いて献げます。
儀式の流れはほぼ一緒で、祭司が血に指を浸し、血を祭壇の四隅の角に塗り、残りの血を焼き尽くす献げ物の祭壇に注ぎ、脂肪を燃やして宥めの香りとする。
残りの肉は全て宿営の外で燃やして処分するのですが、雄牛の時は祭司が指に付けた血を7回振る工程があったり、一般の人の場合は残りの肉を食べて良かったり、若干違う部分もあるようです。
これらの儀式を行うことによって、故意ではないとはいえ犯してしまった罪は、赦されます。
感想・まとめ
これらの儀式は、旧約聖書の時代、イエス・キリストが十字架に架かる以前に、神様が行うこと定めた決まり事です。
イエス・キリストが十字架に架かることで全ての罪が赦されたため、今は行う必要はありません。
でも、昔は定期的に、あるいは誰かが何かやらかす度に、動物による贖いが行われていたんですねぇ。。。
動物は何も悪いことをしていないのに、食べるためでもなく焼かれるなんて可哀想な気もしますが、自分が裁きを受けるか、罪のない動物に代わりに受けてもらわなければならないほど、私たちが神様の前に行った罪は重いのです。
でも、動物では全ての罪を背負い切ることは出来ません。
だから、偉大な神様の御子であるイエス・キリストが、十字架に架かる必要があったのですねぇ。。。
イエス・キリストも、何も悪いことをしていないのに、最も残酷な十字架に架かるという刑を受けました。
でもそれは、私たちの罪を赦し、永遠の命を与え、父なる神様の元へ導くためだったのです。
……と、いう話は何度も聞かされてきましたが。
旧約聖書で動物の献げ物について繰り返し読むと、あぁ、罪って、罪のない動物に犠牲になってもらわないといけないほど罪深いことなんだなぁ、と思いました。
正直、イエス・キリストという存在は大きすぎて、いくら神の子だと言われてもちょっとピンと来ない部分があるのですが、動物と言われると、何にも悪いことをしていない存在としてイメージしやすいです。
目に見えないイエス様より、見える動物の方が、私には身近なんですね^^;
イエス様は見えなくてもいつも共にいて下さるのは、頭では分かっているのですが、なかなか実感するのは難しいですm(_ _)m
よりイエス・キリストのことを知るためには、やはり、旧約聖書を学ぶことは大事だと、改めて思いました。
以上、ペパーミントあいがお届けいたしました!
次回は [ai] レビ記5章 贖罪の献げ物〜賠償の献げ物 についてお届けいたします。
お楽しみに!