[ai] レビ記27章 献げ物 | ペパーミントパラダイス

[ai] レビ記27章 献げ物

こんにちは^ ^

ペパーミントあいです。

今日はレビ記27章を読みました。

レビ記27章

[ai] レビ記26章 偶像を拝んではならない〜祝福と呪い の続きです。

本章には

  • 献げ物(1-34節)
  • ※サブタイトルは新共同訳聖書より

について書かれていました。

以下は、受洗1年2ヶ月目のわたしが本章を読んだ感想です。

解釈には注釈、解説書、教会で得た知識等を総動員させていただいておりますが、聖書について詳しくお知りになりたい方は、お近くの教会へ行って、牧師先生に聞いてみて下さいね^ ^

献げ物(1-34節)

過去の章に出てきた献げ物とは別に、何か誓願をする時に特別に献げる献げ物について書かれているようです。

新共同訳聖書には「満願の献げ物」とありましたが、ちょっと意味はよく分かりませんでしたm(_ _)m

感想・まとめ

物凄く個人的な話で恐縮ですが、私は今、洗礼を受けたことを激しく後悔していますm(_ _)m

イエス様のことが信じられなくなった、という意味ではなく、選ぶ教会を間違えた、という思いでいっぱいなんです。

まさに、教会に躓いている状態です。

「もっとよくイエス様のことを知りたい」「イエス様の愛を受け取りたい」「変わりたい」と思っている時に「洗礼を受ければ聖書が分かるようになるよ」「変われるよ」と言われ、とにかく受ければ救われるんだと思って受けたのですが、ちょっと、勝ち急いだ気がします。

クリスチャンの母からは「まだ少し早いんじゃないか」と言われていたので、もっと母の言うことに耳を傾ければ良かった、と、反省しています。

でも、この章を読んで感じたことは、一度受けた洗礼を取り消すことは出来ない、ということ。

「永久に奉納物は全て神聖なもので主に属する」と28節にあるように、一度イエス・キリストを救い主として受け入れ、イエス・キリストに献げた人生を元に戻すことは出来ないのです。

受洗することは、その受洗した教会に所属することも意味するけれど、洗礼の本当の意味は、イエス・キリストに人生を献げるということ。

牧師や教会の人達に献げるのではなく、あくまでも、神様であるイエス・キリストです。

受洗したことで私の人生はイエス・キリストに握られていると思えば、少しは救われる思いがします。

正直、喜ぶまでは出来ないけれど……このことにも意味があると、信じようと思います。

以上、ペパーミントあいがお届けいたしました!

次回は [ai] 民数記1章 人口調査〜レビ人の任務 についてお届けいたします。

お楽しみに!

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