こんにちは^ ^
ペパーミントあいです。
今日はレビ記23章を読みました。
レビ記23章
[ai] レビ記22章 聖なる献げ物について の続きです。
本章には
- 主の祝祭日(1-44節)
※サブタイトルは新共同訳聖書より
について書かれていました。
以下は、受洗1年1ヶ月目のわたしが本章を読んだ感想です。
解釈には注釈、解説書、教会で得た知識等を総動員させていただいておりますが、聖書について詳しくお知りになりたい方は、お近くの教会へ行って、牧師先生に聞いてみて下さいね^ ^
主の祝祭日(1-44節)
この章には、過越の祭、除酵祭、贖罪日、仮庵の祭など、様々な祭について書かれていました。
毎週日曜日は安息日ですが、それの大きくなったもの、と考えればいいでしょうか?
過越の祭、除酵祭、仮庵の祭は、いずれも神様がイスラエルの民をエジプトから救い出したことを代々に渡って忘れないようにするためのお祭。
贖罪日は、毎年第七の月の10日に行われる最も厳かな安息日。
イスラエルの民はふだんから贖いの献げ物を献げていますが、この日は罪の贖いのために特別な集会を開き、苦行を行わないといけません。
苦行の具体的な内容については分かりませんが、きっと、それなりに苦しい何かを行っていたのだろうと思います。
悔い改めは一生続く
苦しむことによって罪が浄化されて赦される、ということはありません。
ただこの章を読んで感じたのは、悔い改めは一生続く、ということです。
イエス・キリストの十字架によって、私たちの全ての罪は赦されました。
でも、イエス・キリストを救い主として心に受け入れたあとも、私たちは罪を犯してしまいます。
犯さないでいられる人間なんていません。
自分が罪を犯したことに気付いた時「イエス様が十字架にかかってくれたからいいや」というわけにはいきません。
その都度、反省して悔い改めなければなりません。
「わたしが十字架にかかったからもういいんだよ」というのは、反省して悔い改めたときはじめて、イエス様が言って下さるお言葉です。
私たちが罪を犯したことに気付いていないようなら、神様はありとあらゆる方法で気付かせるようにされるし、気付いても反省しないようなら、ありとあらゆる方法で悔い改めに導くはずです。
イエス・キリストの十字架を受け入れた時点で、私たちの罪は赦されました。
天国に行ける命の書に、 名前が記されました。
でも聖書には「わたしのことを『主よ、主よ』という者が全員天国へ行けるわけではない」とも、書いてあるんですよねぇ。。。
イエス・キリストを受け入れたことで一度名が記されても、その後、主の教えを守らなかったことで、消されてしまう可能性もあるのです。
そのことを忘れないためにも、毎週日曜日に礼拝に通ったり、毎日聖書を読んでお祈りする、神様との聖別された時間をもつことが大切です。
以上、ペパーミントあいがお届けいたしました!
次回は レビ記24章 常夜灯 についてお届けいたします。
お楽しみに!