こんにちは^ ^
ペパーミントあいです。
今日はレビ記19章を読みました。
レビ記19章
[ai] レビ記18章 いとうべき性関係 の続きです。
本章には
- 聖なる者となれ(1-37節)
※サブタイトルは新共同訳聖書より
について書かれていました。
以下は、受洗1年目のわたしが本章を読んだ感想です。
解釈には注釈、解説書、教会で得た知識等を総動員させていただいておりますが、聖書について詳しくお知りになりたい方は、お近くの教会へ行って、牧師先生に聞いてみて下さいね^ ^
聖なる者となれ(1-37節)
この章は、モーセの十戒について具体的に詳しく説明されていることで有名な箇所とのこと。
神様がイスラエルの全会衆に向かって「あなたたちは聖なる者となりなさい」告げて始まっています。
「安息日を守りなさい」「父と母を敬いなさい」「偶像を拝んではならない」といった十戒の教えを繰り返し、その都度「わたしはあなたたちの神、主である」と宣言されています。
その他にも、新しい土地に着いたら、3年間は果物を作っても食べてはならないことなどが書かれています。
十戒とは、新約聖書で言うところの律法。
新約聖書ではとかく「律法を守ることより大事なことがあるだろう!」という主張が多いですが、神様の教えの基本は、律法なんですよね。
基本である律法を理解することなく、新約聖書の新しい契約、新しい教えを理解することは、まず不可能であると思います。
目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない
19章を読んで個人的に気になった箇所は、2つ。
そのうちの一つは、以下の箇所です。
耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。(レビ記19章14節)
直接的に読めば、「障害者を差別してはいけない。それを神様はちゃんと見ていますよ」という意味になるかと思います。
でも「目の見えぬ者」って、視覚障害者という意味だけでなく、「無学な者」「助言を必要とする者」のことも指すのだそうです。
そう考えると、「知識のない人に嘘の知識を教えたり、バカにしてはいけない」という意味にもなりますよね。
特に聖職者や牧師が、自身のエゴのために、まだ駆け出しの信徒に対して、聖書を自分の都合のいいように歪めて解釈した教えをしたりすることは、とても危険なことです。
ネットでは有名なYahoo知恵袋など、質問掲示板もたくさんあります。
こういった場所では、ためになる書き込みもたくさんありますが、回答者が質問者の知識がないのを小馬鹿にしたり、分からないから聞いているのに、分からないことをなじるような書き込みをする人もいて、時々悲しくなります。
分からない人には、分かるように、親切に教えてあげる。
これが、神様のお喜びのなることであると、私は思います。
中傷してはならない
もう一つは、以下の箇所。
民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である。(レビ記19章16節)
中傷って、ある意味では、殺人よりも重い罪になるのだそうです。
確かに、それが原因で精神が病んで、自殺してしまう人もいるくらいですからね。
中傷が悪いことであることを知らない人は、いないと思います。
でも残念ながら、ネット上の掲示板やSNS上には、度肝を抜かれるような中傷、汚い言葉の書き込みが満ち溢れています。
自分がやったとバレなければいいと思っている人、
自分が中傷している自覚のない人が、あまりにも多いように思えます。
批判と中傷の区別のついていない人も多い。
自分が気に入らない相手を「こいつはクズだから好きなだけ攻撃していい相手」と勝手に裁いて、汚い言葉を浴びせる人も多いですね。
でも、そのような人たちを自分が正そう、なんて思ってはいけません。
裁きは、そのことを禁じ「わたしは主である」と宣言された神様がして下さいます。
そのような人たちを恐れて、こそこそする必要もありません。
いたずらに刺激する必要もないけれど、こそこそする必要もありません。
ただただ、自分がそのような人たちに染まってしまわないように、自分の心がそのような人たちの中傷に傷付けられないよう守って下さいと、神様に祈りましょう。
私はネットで情報収集を行う時には、そうするようにしています。
以上、ペパーミントあいがお届けいたしました!
次回は レビ記20章 死刑に関する規定 についてお届けいたします。
お楽しみに!