[ai] ヨハネの黙示録3章 〜わたしは戸口に立って、たたいている〜 | ペパーミントパラダイス

[ai] ヨハネの黙示録3章 〜わたしは戸口に立って、たたいている〜

こんにちは^ ^

ペパーミントあいです。

今日はヨハネの黙示録 3章を読みました。

ヨハネの黙示録 3章

本章は

「サルディスにある教会にあてた手紙」(1-6節)
「フィラデルフィアのある教会にあてた手紙」(7-13節)
「ラオディキアにある教会にあてた手紙」(14-22節)

の、三段落構成でした。(※新共同訳聖書の段落分けより)

それぞれ、キリストの勅令を受けたヨハネがキリストから各教会に向けて言われた言葉を手紙にして送っているようです。

以下は本章を初めて読んだ感想です。

あくまでも受洗半年のわたしが初めて読んで思ったことですので、聖書を詳しくお知りになりたい方は、お近くの教会へ行って、牧師先生の聞いてみて下さいね^ ^

わたしは熱くもなく冷たくもないと思った件

わたしが本章を読んで特に大事と感じたのは、以下の箇所です。

19 わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。 20 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をすることであろう。(ヨハネの黙示録3章19-20節)

14節以降の、ラオディキアの教会に宛てた手紙に書かれていたことです。

イエス様はラオディキアの教会の人たちのことを「冷たくもなく熱くもない。なまぬるい。むしろどちらかであってほしい」と言われました。

物凄く心が痛くなりました。

なぜなら、自分のことを言われているように思えたからです。

わたしは毎週の日曜礼拝は守っているし、毎日聖書も読んでいるし、お祈りもしています。

でも、あまり熱心な伝道活動はしていません。

それなりに仲のいい友人知人にさえ、イエス様の素晴らしさを伝えられずにいます。

言えないのには、それなりの理由はあります。

向こうにも、無神論も含めて向こうなりの神様感みたいなものはあるだろうし、中途半端に言葉でイエス様を伝えようとしたら、かえってそれぞれの神論がぶつかって口論になるだけで終わりそうな気がするからです。

また、これは実際に経験したことですが、「これだけのことが出来たのはイエス様がついていて下さったおかげなんだよね」というお話をしたら、何とかそれはキリストのおかげではない、という方向に向こうが持って行こうとしているのが分かって、物凄くイライラしたこともあります。

イエス様は言葉で伝えて理解するものではないし、クリスチャンでない一般の人からしたら「それはあなたの努力であって神様のおかげじゃないでしょ?」と思うことが自然だとも思います。

でも、分かってはいても、否定されたり、否定しようという意思を感じたら、悲しいし、腹が立ちます。

それでただ友達との関係が悪くなって終わったり、わたしの態度が原因で友達がキリスト教に対して物凄く悪いイメージを持ってしまってますますイエス様から遠ざかるようなことがあったら全然いいことないので、いたずらに口先だけで伝道するのはやめようと思いました。

かと言って、今のままでいいのかな、という気持ちもあります。

むしろ、今のままでは良くないから、イエス様にわたしに相応しい伝道の仕方を教えて下さい、友達をイエス様の元に導いて下さいとお祈りすることから始めたいと思います。

その気持ちを熱心に持てるようにも祈ろうと思います。

引用した箇所の前半は、どう伝道したらいいか分からない、否定されてイライラしてしまうわたしに対して、後半は、まだイエス様を信じていない人たちに向けられているもののように思えました。

以上、ペパーミントあいがお届けいたしました。

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