こんにちは^ ^
ペパーミントあいです。
今日はヨシュア記8章を読みました。
ヨシュア記8章
[ai] ヨシュア記7章 アカンの罪 の続きです。
本章には
- アイの滅亡(1-29節)
- エバル山での律法の朗読(30-35節)
※サブタイトルは新共同訳聖書より
について書かれていました。
以下は、受洗1年8ヶ月目のわたしが本章を読んだ感想です。
解釈には注釈、解説書、教会で得た知識等を総動員させていただいておりますが、聖書について詳しくお知りになりたい方は、お近くの教会へ行って、牧師先生に聞いてみて下さいね^ ^
アイの滅亡(1-29節)
アカンを処刑することで罪を取り除くと、神様はヨシュアに、アイへ攻め上るように命じます。
でもエリコの時とは違い、家畜と分捕り品は自分たちのために手に入れていいことになりました。
前回はなめてかかって3000人の兵しか送らなかったけれど、今回は万全を期して、全軍を率いて出撃します。
町の周りに伏兵を置き、囮の軍を出撃させて敵の全軍をおびき出し、町ががら空きになったところを攻め込み、見事勝利!
アイの全住民は女子供も含めて皆殺しにしましたが、家畜や分捕り品は自分たちで持ち帰りました。
エバル山での律法の朗読(30-35節)
その後ヨシュアは、以前神様がモーセに命じられていた通り、エバル山に祭壇を築きました。
律法を書き写した石碑も立てて、全会衆の前で読み上げます。
それは、イスラエルの民を祝福するためでした。
感想
女性と子供も皆殺しとは酷いなと思ってしまいますが、これらは全て、神様に「聖絶せよ」と命じられていたから行われたことでした。
イスラエル人が残酷だから、血に飢えて殺戮を犯したわけではありません。
いきなりこの話を聞いたら「神様って残酷で酷い方だな」と思ったと思います。
でも、ちゃんと最初から読み進めて、前々から「カナン人は彼らの罪のために滅ぼす」ということを神様が繰り返し言っていたことを分かって読むと、少し違って見えますね。
神様に再三悔い改めの機会を与えられていたけれど従わなかった、ということも、書かれていましたからね。
「自由と平等」が正しく、戦争は絶対にいけないことであると、私はずっと思ってきました。
それは今も変わりません。
でも、自由と平等が絶対的に正しいものであると言われたらそうではないと、今は思います。
「そこに神様の御心があるかどうか」が大事であると、少しずつだけど、思うようになってきました。
絶対的に正しいのは、神様なのだなと。
牧師や自称神の代理人は、人間なので絶対の信用は起けません。
でも、神様には絶対の信頼を置きたいと、今は思います。
参考文献
以下の解説書を参考にさせていただきました。
以上、ペパーミントあいがお届けいたしました!
次回は [ai] ヨシュア記9章 ギブオン人の服従 についてお届けいたします。
お楽しみに!