こんにちは^ ^
ペパーミントあいです。
今日はヨシュア記5章を読みました。
ヨシュア記5章
[ai] ヨシュア記4章 記念の十二の石 の続きです。
本章には
- 契約のしるし(1-15節)
※サブタイトルは新共同訳聖書より
について書かれていました。
以下は、受洗1年8ヶ月目のわたしが本章を読んだ感想です。
解釈には注釈、解説書、教会で得た知識等を総動員させていただいておりますが、聖書について詳しくお知りになりたい方は、お近くの教会へ行って、牧師先生に聞いてみて下さいね^ ^
契約のしるし(1-15節)
イスラエルの民がヨルダン川を渡るため、神様が川の流れをせき止めて下さったことは、周辺のアモリ人やカナン人たちにも知れ渡りました。
彼らは神様に守られているイスラエルを恐れ、すっかり戦意喪失していました。
一方神様は、ヨシュアに、全イスラエルの男子に割礼を施すようお命じになりました。
エジプトを出た時のイスラエルの成人男子は皆、割礼を受けていましたが、彼らは神様に背いたため、ヨルダン川を渡る前に荒野で亡くなりました。
今いる成人男子たちは、彼らの息子たちの世代で、まだ割礼を受けていなかったからです。
彼らは割礼を受けると、傷が癒えるまでの3日ほど、ギルガルに止まりました。
ギルガルに宿営中、イスラエルの民は、この土地で取れたもので過越祭を行いました。
土地で取れたものを食べると、以後、マナは降ってこなくなりました。
さあ、まさにこれからエリコに攻め上ろうという時、ヨシュアが目を上げると、抜き身の剣を持った神様の使いが立っていました。
御使いはヨシュアに言いました。
「履物を脱げ。今あなたが立っている場所は、聖なる所である」
これは、神様が燃える柴からモーセに語りかけられた時に言われたのと同じ言葉です。
感想
このあたりは話がサクサク進んで面白いですね(笑)
順風満帆といった感じです。
ここで40年ぶりの過越祭が行われ、その土地で取れたものを食べたことによって、マナは降らなくなりました。
未熟な信仰者にはマナが必要だけれど、成熟した信仰者は自分で日々の糧を得ることを象徴しているのだそうです。
モーセの時代は修行の日々であったのに対し、ヨシュアの時代になると、実際に行動を起こすことになります。
人に伝道出来るようになるには、マナが要らなくなるくらいには成熟することも必要なのかな、と思いました。
参考文献
以下の解説書を参考にさせていただきました。
以上、ペパーミントあいがお届けいたしました!
次回は [ai] ヨシュア記6章 エリコの占領 についてお届けいたします。
お楽しみに!