こんにちは^ ^
ペパーミントあいです。
今日はフィリピの信徒への手紙 2章を読みました。

フィリピの信徒への手紙 2章
本章は
「キリストを模範とせよ」(1-10節)
「共に喜ぶ」(12-18節)
「テモテとエパフロディトを送る」(19-30節)
の、3段落構成になっていました。
以下は、本章を初見した感想です。
専門家の「解説」ではなく、素人の「感想」です。
きちんと聖書をお知りになりたい方は、お近くの教会に行って、牧師先生に聞いてみて下さいね^ ^
キリストを模範とせよ
本章を読んで特に大事と感じたのは、以下の箇所です。
少し長くなりますが、引用させていただきます。
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようよは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与になりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。(フィリピの信徒への手紙2章3-11節)
キリストを模範としなさい。
具体的には、自分を無にして、低くへりくだりなさい。そうすれば、逆に神は高く上げて下さる、という内容のことが書かれています。
そもそも神様の声って聞こえないし、「自分を捨てて」って言われると、人間やめてロボットにでもなるみたいで気持ち悪いな、と思う方もいらっしゃるかと思います。
わたしも正直、「従う」というワードに関しては今だに葛藤しているし、「自分の意思を持っちゃいけないの?」と思うと、何のために人間に生まれてきたんだろう?と思ってしまうのですが……
多分、神様は体罰を加える指導者やパワハラ上司のように、力で押さえつけて無理矢理従わせ、思い通りにさせようとされているわけではないのだと思います。
人間に対して盲目的になるのは危険だけれど、神様なら大丈夫
これは昔、牧師だった父から聞いた話なのですが、「船長が自分で、神様が船主」なのだと言われたことがあります。
主人公はあくまでも自分だけど、神様はバックについている偉い人、という位置付けでいいのではないかと思います。
明確な意思を持って進むのは自分だけど、船主の意向を無視して好き勝手にしてはいけません。
それに、いざというときは助けてくれるし、いざという時でなくても見守っていて下さるのが神様です。
そして、イエス様は神様なので、絶対に間違えません。
盲目的になってしまうことの何が危険なのかというと、わたしは、人間は必ず間違えるからだと思います。
間違った時にも盲目的に従ってしまうのは危険です。
でも、繰り返しますが、イエス様は神様だから間違えることがありません。
自分の意思でへりくだる
でももっと言うと、イエス様は「盲目的に」ただ従うだけのことをわたしたちに望んではいないと思うのです。
ただ「イエス様がそう言うから」というだけでは、結果的に、自分を低くして神と人にへりくだって仕える人間にはなれないと思います。
自分が心から「イエス様はわたしを愛して下さっている神様だから信じます!ついていきます!」という気持ちを持つことが大事なんじゃないでしょうか?
よく「イエス様を信じて従う」という言い方をしますが、「従う」の前に「信じる」が、来るんですよね。
まとめ
人間は間違うから人間に盲目的に従うのは危険だけれど、自分も人間だから間違うし、自分だけを信じて生きていくのも同様に危険だと思います。
じゃあどうしたらいいか?と言われたら、、、
間違った時に正しい方向に戻して下さるイエス様に従えばいいんじゃないかと思うのです。
以上、ペパーミントあいがお届けいたしました!