こんにちは^ ^
ペパーミントあいです。
今日はコロサイの信徒への手紙 3章を読みました。

コロサイの信徒への手紙 3章
本章は
「日々新たにされて」(2章続き、1-17節)
「家族に対して」(18-25節)
の、二段落構成になっていました。
以下は、本章を初見した感想です。
専門家の「解説」ではなく、素人の「感想」です。きちんと聖書をお知りになりたい方は、お近くの教会へ行って、牧師先生に聞いてみて下さいね^ ^
すべてを主の名によって行う
本章を読んで、個人的に特に気になった箇所をご紹介いたします。
何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。(コロサイの信徒への手紙3章17節)
他にも惹かれた箇所はたくさんあったのでどこをピックアップしようか迷ったのですが、ここにさせていただきました。
例えば今、わたしがこうしてブログを書くことも、イエス様の名によって行わないといけない=イエス様の名に恥じないよう、嘘偽りなく、心からの愛をもって発信しないといけません。
それが完全に出来ている自信はありませんが、少なくとも、心にもないことは書かないし、そうであろうと努力はしているし、そう出来るようにお祈りはしています。
思い出したのは、相撲は神事だという話
話は飛びますが、もうすぐ大相撲春場所が始まりますね。
相撲ファンのわたしはとても楽しみです!
相撲って、今でこそスポーツや格闘技の印象が強いけど、元々は神道の儀式であり、神事なんですよね。
年始など、要所要所に横綱の奉納土俵入りがあるし、毎場所土俵を作る度に、土俵祭が行われています。
ほぼ裸、失礼な言い方ですが、百漢デブが戦う競技なんて、外国の方からしたらそれこそ考えられない、なんて品のない!と思われそうなことですが、逆に外国の方々からは高評価。
その理由は、元々が神事であるゆえの礼を重んじる姿、「品格」にあると思います。
でもここ最近は、「品格」について問題視されることが多くなりました。
土俵上でのガッツポーズ、相手を怪我させるようなカチ上げ、勝負がついたあとのダメ押しなど、誰とは言いませんが、こういったことが「相手に対して失礼」と、問題視されています。
品格に関しては、ちょっと厳しすぎるんじゃないかと感じることもありますが、それも神事ゆえ、古き良き日本の伝統ゆえ、また、品格を取り除いた相撲などただ全裸の百漢デブが戦うだけの野蛮な競技になってしまうから厳しいんだろうなと思います。
相撲の起源は、野見宿禰(のみのすくね)という神道の神様にあるとされているようですね。
その野見宿禰を祀った神社もあるのだとか。
相撲解説者で元横綱の北の富士勝昭さんは、よく若い力士に「強くなれるように、ちゃんと野見宿禰神社にお参りに行けよ」と言っているけれど、なかなか行かないのだとか。
わたしはクリスチャンなので、力士たちに野見宿禰神社にお参りに行ってほしいとは思いませんが、神を畏れる心、神を敬う気持ちがないのは、ちょっとよろしくないのではと思いました。
(お参りに行かない理由がクリスチャンだから、ならいいですが、多分違うでしょうし)
ここからはキリスト教の考え方前提の話しになりますが、人間は神様に創られた存在だから、神様によって生かされています。
神様から離れたら迷走してしまいます。その先に希望はありません。
極論かもしれませんが、神を畏れ、敬う気持ちがないから、人のことも重んじられない、品格のない行動に繋がるんじゃないかな、と思いました。
上記の品格問題はほとんど外国人力士によるものですが、日本人だって他人事ではないと思います。
で、何が言いたいかと言うと。
力士たちには、その相撲を各々の神様に捧げるつもりで取ってほしい。
畏れ敬う神様に見られて、恥ずかしくない相撲を取ってほしいなと思うのです。
その気持ちが結果、相手力士への礼儀、お客さんが喜ぶ相撲に繋がるんじゃないかと思うのです。
引いて勝ったりはたいて勝つのもいいけれど、楽して勝とうとは思わないでほしいですね。
前置きが長くなりましたが、ようやく聖書の箇所に繋がりました(^_^;)
何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。(コロサイの信徒への手紙3章17節)
ちょっと無理矢理かもしれませんが;;
以上、ペパーミントあいがお届けいたしました。