こんにちは^ ^
ペパーミントあいです。
今日はガラテヤの信徒への手紙 4章を読みました。

ガラテヤの信徒への手紙 4章
本章は
「奴隷ではなく神の子である」(3章続き、1-7節)
「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで」(8-20節)
「二人の女のたとえ」(21-31節)
の、三段落で構成されていました。
奴隷ではなく神の子である
こちらは昨日読んだ3章の続きです。
キリストのあがないの十字架によって、わたしたちは罪の奴隷でも律法の奴隷でもなく、神の子とされた、という内容のことが書いてあります。
律法はキリストがやってくるまでの養育係や後見人のようなものなのだそうです。
キリストがあなたがたの内に形づくられるまで
この段落の19節で、パウロは「わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」と言っています。
クリスチャンの世界ではよく、ノンクリスチャンの方に伝道し、その人が洗礼を受けてクリスチャンになるまでの過程を「産みの苦しみ」に例えることがあります。
自分中心だったそれまでの生き方を捨てて、イエス様を心に迎え入れて新しく生まれ変わるわけですから、なるほど、あながち間違ってもいないなと思いました。
わたしは、自分が教会に誘った友達がクリスチャンになってくれた経験がないので分かりませんが、自分がイエス様に導かれるまでの過程には、確かに、先輩クリスチャンの方のお祈りや励ましがたくさんありました。
キリスト教がどういう宗教かも分からない人にイエス様の愛を伝えるって、相当大変なことですよね。
実際その経験をなさった方々は、「子供が生まれたくらい嬉しいことだった」とおっしゃっていました。
参考文献「きょうの力」による解説
心の中にイエス様を迎え入れたばかりのうちは、以前読んだ章では「罪の性質が強すぎて光が現れにくくなっている」と解説されていました。
(参照 : [ai] ガラテヤの信徒への手紙 1章 〜我が内に住みたもう御子をもっとあらわしたまえ〜 | ペパーミントダイアリー for ジーザス!)
本章では、親鳥が卵を産んで雛が形作られるまでまでの経緯に例えられていました。
イエス様を知ったばかりの頃は、言わば産まれたばかりの卵で、まだ命の核が存在しているだけ。
それを先輩クリスチャンである親鳥が丹念に温めることによって、雛が形作られて殻を破って生まれてくる。これが、信じて洗礼を受けて生まれ変わったばかりの状態。
生まれたばかりの雛はまだ成鳥ではありませんから、親鳥に育てられて、ちゃんとしたクリスチャンになっていく。
そんな風なことが書いてありました。
参考文献:「きょうの力」(F.B.マイヤー原著 小畑進編著)
二人の女のたとえ
ここには旧約聖書の創世記に出てくるアブラハムの二人の息子の母親、ハガルとサラについて書かれていました。
アブラハムには女奴隷のハガルが生んだイシマエルと、正妻のサラから生まれたイサクという二人の息子がいるのですが、イシマエルは勝手に作って生んだ子供だったのに対し、イサクは神から約束されて生まれた子供でした。
このことにはもう一つの意味が隠されていて、ハガルの子供は律法、サラの子供は福音、信仰による救いを表しているそうです。
(と、いう意味だと思うのですが、間違っていたらすみません;;)
要するに、わたしたちは律法の奴隷ではなく信仰によって自由にされた子供なんだよ、ということを言いたいものかと思います^ ^
ちなみに、ご存知の方も多いかもしれませんが、イシマエルの子孫は現在のパレスチナ人で、イサクの子孫は現在のユダヤ人なのだそうです。
以上が、ガラテヤの信徒への手紙 4章を初めて読んだ、わたしの個人的な感想です。
きちんと聖書の意味を知りたい方は、お近くの教会に行って牧師先生に聞いてみて下さい^ ^
ペパーミントあいがお届けいたしました!