こんにちは^ ^
ペパーミントあいです。
今日はエフェソの信徒への手紙 2章を読みました。

エフェソの信徒への手紙 2章
本章は
「死から命へ」(1-10節)
「キリストにおいて一つとなる」(11-22節)
の、二段落構成でした。
以下は、本章を初見した感想です。
専門家の「解説」ではなく、一般人のただの「感想」です。
ちゃんと聖書をお知りになりたい方は、お近くの教会に行って牧師先生に聞いてみて下さいね^ ^
信じるだけで救われる
わたしたちはこれまで罪の奴隷だったけれど、イエス・キリストが十字架にかかったことで赦され、そのキリストを救い主として信じたことによって罪の奴隷から解放された、という内容のことが書かれているようです。
これまでに読んだ「ローマの信徒への手紙」や「コリントの信徒への手紙」と共通していて、パウロはよほど「信じることによって救われるんだよ、行ないによって救われるんじゃないよ」ということを訴えたかったようです。
確かに、日本古来の宗教も、「修行して徳を高めることによって救われる」とか「たくさんお布施をすることによって救われる」といった教えが多いですもんねm(_ _)m
……わたしはキリスト教の家庭に育っているため、キリスト教以外の宗教については明るくないので、もし間違っていたらすみません。
ただ、これまでに聞いたクリスチャンや牧師さんの証の中には、上記のような教えに従っていたけれど救われなかった、というお話がよく出てくるので、やっぱり行ないによって救われるのでは救いを得られない人がたくさんいるんだろうなと思いました。
勝手にプレッシャーを感じてイエス様に背を向けた過去
実際わたしも、自分の親のことをこう言うのはあれなのですが、牧師の父と牧師夫人の母が立派過ぎました。
イエス様を信じて献身したら、ここまで人に優しくしなければいけないのか、ここまで仕えなければならないのかと思ったら、とてもついていけないと感じ、キリスト教から逃げ出しました。
ひとたびキリストを信じると決めたら最後、どんなに嫌いな人にも優しくしなければならない、ていうか嫌いだなんて思うことさえ許されない、自分が楽しいと思うことはしてはいけない、この世の楽しみは一切絶って、ただひたすら、辛い苦しい仕える生活をしなければならない、迫害されても耐えなければならない。
そんな風に思ってしまっていました。
決して父や母が一切楽しいことしていなかったかというとそういうわけではないのですが、聖書や賛美歌のは至る所に「世の楽しみよ去れ」みたいなフレーズが出てくるので、楽しいと感じること=罪、というような感覚に陥ってたんですよね(^_^;)
京都グレースバブルチャーチの関先生の説教で「救われたかったらただイエス様を信じるだけでいいんですよ」と言われるまで、聖人君主のような人間にならなければならないプレッシャーから逃げていました。
(多分、父も繰り返し同じようなことは言っていたと思うのですが、その時のわたしにはプレッシャーの方が大きすぎて全然心に響きませんでした)
人に優しい教え
修行や行ないによってでないと救われないとしたら、わたしにはまず、絶対に無理です。断言します!笑
修行や何かいい行ないをすることによって、得られるものは必ずあると思います。
でも、成し遂げられなかったら救われないのだとしたら……プレッシャーでしかないですよねm(_ _)m
精神力の強い人ならいいでしょうけれど、わたしみたいに飽きっぽくてすぐ落ち込む弱い人間には無理です。。。
信じるだけで救われる、って、つくづく人に優しい教えだなと思います。
以上、ペパーミントあいがお届けいたしました!