こんにちは^ ^
ペパーミントあいです。
2015年12月3日 草加神召教会リバーサイドチャペルの水曜祈祷会に参加させていただきました。
草加神召キリスト教会リバーサイドチャペルの水曜祈祷会
草加神召キリスト教会リバーサイドチャペルは、東京スカイツリーライン 松原団地駅より徒歩5-10分ほどのところにある教会です。
祈祷会は毎週水曜日 19時半から行われています。
詳しくは下記教会HPをご確認いただければと思います。
この日のメッセンジャー
この日のメッセンジャーは、本教会のイベス宣教師でした。
本教会の、国内のフィリピン教会にて働いておられる先生とのことです。
クリスチャンであるがゆえの希望について
この日のメッセージテーマは「希望」について。
読んだ聖書の箇所は、以下の箇所です。
むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。(ペテロの第一の手紙3章15節)
あなたがもしクリスチャンなら、クリスチャンであるがゆえの希望を、未信者の方に説明することが出来ますか?
未信者の方から「クリスチャンになるとどんないいことがあるの?」と訊かれた時、すぐ答えられるようにしておきなさいと、使徒ペテロは言っています。
クリスチャンであるがゆえの希望は、クリスマスが与えてくれる希望と言い換えてもいいと思います。
なぜなら、私たちクリスチャンが信じているイエス・キリストがお生まれになった日が、クリスマスだからです。
クリスマスが与えてくれる希望
では、その希望とは、何でしょうか?
それは、イエス・キリストがこの世にお生まれになったこと、そのものだと思います。
私たちの祖先・アダムとエバは、エデンの園で禁じられた木の実を食べるという大罪を犯しました。
善悪を知る木の実という、神様の領域に踏み込む、自分が神様になろうとする大罪です。
以後、全ての人間の中に罪が入り、人間はいつか死ぬという宿命を負うことになりましたが、神の御子イエス・キリストが私たちの罪を贖い、代わりに十字架で死んで下さったことによって、私たちの罪は赦され、永遠の命を得ることが出来たのです!
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(ヨハネの手紙第一 4章10節)
人生は儚い。でも、クリスマスがあるから本当は儚くない!
私たちの人生は、本当に儚くて短いものです。
新約聖書のヤコブの手紙にも、このように書かれています。
あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。(ヤコブの手紙4章14節)
広い宇宙の歴史を思えば、本当に人一人の人生なんて、大した長さじゃないですよね。
人間はいつか、必ず死にます。
どれだけ医学が進もうと、大金を手に入れようと、名誉を得ようと、いつか死ぬという運命には勝てません。
自分が死ぬ時のことを常に考えている人は、そういないかとは思いますが、誰しもが無意識のうちに、死を恐れているのではないでしょうか?
でも、イエス・キリストの十字架を受け入れたクリスチャンは違います。
この世での人生はいつか終わるけれど、イエス・キリストを受け入れたことによって、永遠の命を得ることが出来たことを知っているから、死は怖くないのです。
……少しは怖いですが、苦しいのはほんのいっときで、その後天国へ凱旋した時の喜びに比べれば大したものではないことを、私たちは知っています。
だから、希望を持って生きています!
でも、罪人であることを忘れてはいけない
逆に、イエス・キリストを信じなかった人、受け入れなかった人の末路は、こうです。
しかし、おくびょう者、不信仰の者、 憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。(ヨハネの黙示録21章8節)
私たちは本来、このように裁かれるべき存在であったことを、忘れてはいけません。
むしろ、これだけの裁きを受けるほどの存在であった私たちが、天国へ行けるように引き上げられたことが、希望であり、奇跡です。
なので、罪人である自分を自覚せずして、希望を持つことなど出来ないのです。
罪人であることを自覚せずして、希望を得ることはできない!
旧約聖書の詩篇には、このように書かれています。
主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。(詩篇19編7節)
神様の教えは完全で、これを守れば、魂が生き返り、弁えのない者も賢くなるのだそうです。
でも中には、イエス様を信じかけたけれど、いつの間にか教会に来なくなってしまう人もたくさんいます。
イエス様を信じるようになって変わった、とは、お世辞にも言えないような人もいます。
そうなってしまう原因を「聖書の教えが不完全だからだ」と言う人もいますが、それは間違いです。
ちゃんと教えを守っていない、理解していないから、魂が生き返らず、賢くならないのです。
とはいえ、罪人である私たちに、聖書を完全に理解し、教えを完全に実行することは不可能です。
どんなに気を付けていても、不可能です。
だから、自分は不完全な罪人であることを理解する必要があります。
不完全だからこそ、聖霊様を求め、神様の愛を求め、祈り、教えを、伺いを立てるようにしないといけません。
教える側も、そのことをしっかり教える必要があります。
そうでないと、偽りの希望を与え、偽クリスチャンを育ててしまいかねません。
罪の悟りがなければ、本当のクリスチャンとなることは出来ないのです。
モーセの律法によって、私たちの罪が見える
旧約聖書には、有名なモーセの十戒など、様々な戒律が出てきます。
これが、新約聖書で言うところの律法です。
「殺してはならない」「姦淫してはならない」「あなたの父と母を敬え」といった教えを守れているかどうかで、私たちの罪の度合いを測ることが出来ます。
光を当てると空気中のチリやホコリが見えるように、律法を通して、私たちの罪が見えるようになります。
こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。(ガラテヤ人への手紙3章24節)
律法は私たちを裁くためのものではなく、私たちの罪を自覚させるためのもの。
そう考えたら、上記のガラテヤ書に書かれている通り、律法は私たちをキリストへ導くための養育係と言えるでしょう。
旧約聖書に書かれている律法や原罪を知らずして、新約聖書の愛の教えを理解することは出来ません。
何が罪か分からなければ、悪いことをしても罪の意識がなくなり、生き方がどんどん反れていきます。
御言葉を理解出来れば、恵まれ、成長する
自分がどうしようもない罪人であることをよく理解した上で御言葉を学べば、それは深い恵みとなります。
御言葉によって、成長することが出来ます。
いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。(使徒の働き20章32節)
御言葉は霊の糧。
これをたくさんいただくことによって成長し、神様に近い存在となり、神様の国を継ぐことが出来るのです。
魂はとても高価なもの
命がとても粗末に扱われることの多いご時世になりましたが、全ての魂は、とても高価なものです。
人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。(マタイの福音書16章26節)
命をお金で買い戻すことは出来ません。
そして、一人の罪人が悔い改めてイエス・キリストを受け入れる時、天国では御使いたちが祝杯をあげて大喜びするのだそうです!
あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使たちに喜びはわき起こるのです。(ルカの福音書15章10節)
大切な魂が救われることは、私たちの魂を生き返らせることにもなるそうです!
……一年に最低一人は受洗に導きなさいとかノルマを課せられるのはちょっと嫌ですが、その喜びを味わえたらいいものですね。
感想・まとめ
キリスト教の何たるかを全く知らない人に向かって「お前は罪人だ!」とは、なかなか言えません。
いきなりそれを言われたら、その人はまず、嫌になって教会に来なくなってしまうでしょうから。
かと言って、いつまでも優しい言葉、心地いい言葉ばかり聞かせて、肝心の原罪や罪人の自覚を教えないことには、その人は本当の意味での十字架の恵みを理解することは出来ません。
それを人に教えるには、まず、教える側が自身の罪を自覚し、悔い改めた上で、心を砕いて神様に祈り、神様に伺いを立てる必要があるかもしれません。
私たちが伝道する目的は、相手を裁いて反省させることではなく、反省して悔い改めた先の救いに導くことですからね。
自分が救われていないことには、どうしようもありません。
そこに完璧を求めてしまったら一生伝道なんて出来なくなってしまいますが、その気持ちは、忘れないようにしたいと思います。
以上、ペパーミントあいがお届けいたしました。