おはようございます!
ペパーミントあいです^ ^
今朝もスカイプ通信にて、在籍している京都グレースバイブルチャーチの早天祈祷会に参加させていただきました。

前回のブログで、日曜礼拝の説教を聞いて物凄く納得のいかなかった話を書かせていただいたのですが、今日の早天祈祷会のメッセージで、それがスッキリした気がしました!
前回の記事は下記をご参照のこと
[ai] ヨハネの手紙三 〜悪いことではなく、善いことを見倣う〜 | ペパーミントダイアリー for ジーザス!
大事なもののそばにあなたの心がある。その意味するところとは?
今日読んだ聖書の箇所は、列王記上 17章17-24節。
預言者エリヤが、王様の罪のためにイスラエルが飢饉に瀕した際、あるやもめの家で養ってもらった時のお話です。
そのやもめの家では飢饉のため、食べ物が底を尽きかけていたのですが、不思議なことに、エリヤがやってくるとパンを作るための粉も油も無くなることがありませんでした。
神様の力が働いたことによる奇跡かと思われます。
でもそれからしばらく経ったある日、その家の子供が病気で無くなってしまいました。
その時やもめは、神様の祝福により食べ物が与えられたことを忘れ、エリヤが来たせいで子供が死んだと、エリヤを責めました。
エリヤが神様に祈ると、子供は生き返ったので、彼女は神様の言葉は真実であると理解した、というお話です。
人間、残念なことに、恵まれた状態が続くと、それが当たり前になってしまって、恵まれていることを忘れてしまうんですよね。
この女性も、食べ物が与えられた当初は神様に感謝もしたでしょうが、だんだんそれが当たり前になってしまい、子供の死というマイナスなことにしか目を向けられなくなってしまったのだと思います。
母親にとって子供が死ぬというのはとてもショックなことだから、それも仕方がないと思います。
でも、「心は常に宝物のそばにある。その宝に何かあった時にその人の本性が出る」と、メッセージで関誠牧師はおっしゃいました。
それを言われて、わたしはハッとしました。
思い当たることがあったからです。
尊敬している両親を悪く言われたから感情的になってしまった
先日の日曜礼拝で、わたしはその日登壇した牧師さんから「お前とお前の家族は家計の罪に呪われている!」と言われたような気持ちになったと書きました。
尊敬している両親の考え方を全否定し、その考え方そのものが偶像崇拝やオカルトの遊びに手を出すことと同列の罪だ!という意味合いに受け取れたので、ふざけるなと思いました。
「何この人!?」と、本気で思いました。
でもその時わたしが取るべき行動は、その先生を裁くことでも、教会から逃げ出すことでも、ツイッターにグチグチ書き込むことでもなく、イエス様がこのメッセージを通じてわたしに何を伝えようとしているのか考え、祈り、伺いを立てるべきだったのです。
怒ったりツイッターに書き込むかは、それから決めれば良かったのです。
大事な両親のことを悪く言われ、感情的になったわたしは、そのことをすっかり忘れてしまっていました。
否、少しは頭の片隅にあったけれど、怒りやショックといった不快感が大きすぎて、その感情に負けてしまいました。
今日の早天祈祷会のメッセージを聞いて、わたしは問題ではなく主に目を向けることが出来ていない、主に伺いを立てることが出来ていなかったのだと分かりました。
大事な両親のことを悪く言われた時に、そんなだめな部分が出てしまったと思いました。
同時に、神様より両親に重きを置いてしまっていたことにも気付きました。
聖書には「あなたの父と母を敬え」とあるので、両親を尊敬するのはいいことなのですが、神様より上になってしまってはいけません。
わたしの父は牧師だったので「あれほどイエス様に熱心だった父が、間違うわけないだろ!」と思っていましたが、親であろうが牧師であろうが人間なのです。間違うことはあります。
父が家計の罪とまで言われるほどの呪いを家族にもたらしたとは今でも思ってはいませんが、牧師だから、イエス様に熱心だったから間違うわけない、という考え方は、間違ってますよね。
もちろん、わたしとわたしの両親が間違っている、というのが神様からのメッセージなら、それに従わないといけませんが、何となく今回のことは、どちらの考えが正しいかというよりも、問題より主に目を向け向けることの大事さや、主に重きを置くことの大事さ、また教会といえど合わない考え方の人もいるからそれを受け入れていくことの大事さを学んだような気がします。
このような試練にあうことは、信仰をより強めるためのことなので、恵みなのだと関牧師は話していました。
それを感謝して受け取ろうと思います。